ハプスブルク家の伸長
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「神聖ローマ帝国」の記事における「ハプスブルク家の伸長」の解説
「オーストリア公国」および「ハプスブルク君主国」を参照 ハプスブルク家はルドルフ1世、アルブレヒト1世、フリードリヒ美王と三代にわたってローマ王(対立王含む)を輩出した後、しばらく歴史の表舞台から姿を消した。美王の跡をついだアルブレヒト2世 (オーストリア公)賢公は1315年、スイス誓約同盟(ドイツ語版、英語版)(Eidgenossenschaft)にモルガルテンの戦い、に敗れて発祥の地を事実上失った。しかしスイスへのこだわりは捨ててオーストリアの内政に勤しんだ。1335年にはケルンテン公領、クライン公領 (en) を皇帝ルートヴィヒ4世から拝領している。皇帝カール4世の治世に賢公の跡を継いだルドルフ4世は、金印勅書に定められた選帝侯にオーストリアが含まれていないことを不満に思った。そして選帝侯を上回る特権を持つ「大公」(Erzherzog)なる称号を自称し、特許状を偽造して皇帝に送りつけた。皇帝はこれを挑発と見抜いてうやむやにしたが、否定もされなかった特許状はハプスブルク家発展の布石となった。時代が下り、皇帝ジギスムントの死後にその娘婿となっていたオーストリア公アルブレヒト5世はボヘミア王とハンガリー王を相続した。1438年にはアルブレヒトはローマ王に選出され、ローマ王アルブレヒト2世となった。しかし、僅か1年ほどで急死。オーストリア、ボヘミア、後にハンガリーはアルブレヒトの死後に生まれた息子ラディスラウス・ポストゥムスが継承した。しかしローマ王には1440年にアルブレヒトの又従兄弟であるフリードリヒ3世が24歳で選出された。 フリードリヒ3世は「帝国第一の就寝帽」「神聖ローマ帝国の大愚図」と評されるほどの無能な人物だった。決断力に欠けて臆病で気が弱く、常に借金で追われ、けちであり、長所は忍耐力のみだった。王は即位するとラディスラウスの存在に怯えてすぐさま監禁し、オーストリアを弟と共同統治した。1442年、ローマ王として正式に戴冠。同年、英仏で百年戦争が終結している。1450年以降、ラディスラウスを自由の身にするよう求めるオーストリア貴族が同盟を結成した。1452年に王はラディスラウスを連れ、結婚式と皇帝への戴冠式を兼ねてイタリアに逃亡した。ポルトガル王女エレオノーレと結婚して持参金を得、36歳で皇帝にも戴冠したが、首都ウィーンに戻ったところでラディスラウスを解放せざるを得なかった。 1453年、コンスタンティノープルが陥落してビザンツ(東ローマ)帝国が滅亡するとオスマン帝国の脅威が迫ってきた。1457年にラディスラウスが都合良く死去して皇帝は名実ともにオーストリアを得たが、存亡の危機にあるハンガリー貴族は救国の英雄フニャディの息子マーチャーシュ1世をハンガリー王に選出した。マーチャーシュは有能で、ワラキア、セルビア等次々に領土を拡張した。こうした中、貧乏だが権威を持つ皇帝と、皇帝の権威を狙う豊かなブルゴーニュ公シャルル(突進公)の利害が一致し、皇帝の嫡男マクシミリアン1世と突進公の一人娘マリーの婚約が1473年に実現した。1477年、突進公が都合良く戦死し、ブルゴーニュはハプスブルク家のものとなった。しかし1479年、ハンガリーのマーチャーシュがオーストリアにまで来襲し、1485年にはウィーンが占領された。これをきっかけに、マクシミリアン1世はローマ王に戴冠した。1490年、都合の良いことにマーチャーシュは嫡子無く死去したため、皇帝はオーストリアを回復した。1493年、皇帝は77歳で死去。自発的に行動しなかった53年の在位中、神聖ローマ帝国は概ね平和だった。特にイタリアでは滅亡したビザンツから流れてきた文化人により、ルネサンスの最盛期を迎えた。また、ルドルフ4世の大特許状を密かに帝国法に組み込み、帝位世襲の布石を打っている。婚姻政策も成功しており、結果としてはハプスブルク家発展の道を開くことになった。神聖ローマ帝国に初めて「ドイツ人の」という接頭語をつけたのもこの皇帝である。 マクシミリアン1世はフランスとの戦争を通じ、消極的ながらもドイツを近世国家へ移行させた。父帝死去直後の1494年、35歳の王はイタリア半島に侵攻していたフランス王シャルル8世との戦争状態に入り、イタリア戦争が始まった。翌1495年、王は諸侯に軍資金を求めるヴォルムス帝国議会を開催し、さらに全ドイツ国民から税を徴収する一般帝国税(Gemeiner Pfennig)の導入と兵士の提供を求めた。これに対し、マインツ大司教を中心とした諸侯代表たちは諸改革案を提案した。当時、ドイツには新体制を構築しようとする帝国改造(Reichsreform)が求められていた。王は妥協して同意した。なお「帝国」改造とは言うものの、改革の対象はドイツのみである。イタリアは既に帝国行政の範囲外であった。 帝国改造の根本は治安維持であり、決闘の禁止である。古代よりゲルマン貴族には決闘による報復と権利回復が広く認められていた。これをフェーデと言う。しかし略奪目的の言いがかりも多かった。期間限定でフェーデを禁止する「平和令」はたびたび出されていたが、帝国改造ではこれを徹底したのである。帝国改造はフェーデを完全に禁止する永久ラント平和令(Ewiger Landfriede)、フェーデに代わって封臣間の政治的争いを解決する帝国最高法院(Reichskammergericht)の設置、及び帝国最高法院の選挙区である帝国クライス(Reichskreise)の設置から成る。帝国クライスは徐々にドイツの自立的な地方行政区分へと変化し、治安維持の実務、徴税、帝国軍編成の管理運営に加え、17世紀には国防をも担っていく。なお、帝国クライスは同時に設置された中央政府「帝国統治院」の選挙区でもあったが、早くも1502年に統治院は廃止されている。また、帝国最高法院には皇帝(国王)の権力が殆ど及ばない仕組みだったため、皇帝直轄の帝国宮内法院 (Reichshofrat) が1497年に設置され、二つの最高裁判所が併存した。 1508年、教皇ユリウス2世の要請により、王は大軍を率いて帝国外の独立国ヴェネツィアへ遠征した。しかしイタリア北東部全域を併合していたヴェネツィアは手強く、遠征は失敗した。ヴェネツィア征伐後には皇帝への戴冠式を行う予定だったが果たせず、教皇の同意の下で以後のローマ王は戴冠せずに皇帝を称することになった。その後も神聖ローマ帝国は連戦連敗であり、弱体化は明らかだった。1512年、皇帝は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)の国名を公文書で用いた。神聖ローマ帝国はイタリアに宗主権を主張しつつも、版図がもはやドイツ語圏及びその周辺に限られ、世界帝国建設という目的の放棄も明確となった。こうして中世は終わった。 一方で、皇帝個人の婚姻政策は大成功を収めていた。1500年にスペイン王女フアナと結婚させた息子フィリップにカルロス、フェルディナントの兄弟が生まれ、カルロスは1516年にスペイン、ナポリ=シチリアの王位を15歳で継承した。フェルディナントはハンガリー=ボヘミアの王女と結婚し、皇帝死後の1526年にこの地をハプスブルク家に取り戻した。こうしてハプスブルク家はスペイン、ドイツ、ネーデルラント、ナポリ=シチリア、サルデーニャ、オーストリア、ハンガリー=ボヘミアそして広大なスペインの新大陸領土を治める「普遍的君主制」(monarchia universalis)に君臨し、神聖ローマ帝国とは別の世界帝国が成立しつつあった。1519年に皇帝は59歳で死去。孫のスペイン王カルロス1世が19歳で皇帝に選出され、神聖ローマ皇帝カール5世となった。
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