ハプスブルク家の伸長とは? わかりやすく解説

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ハプスブルク家の伸長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:51 UTC 版)

神聖ローマ帝国」の記事における「ハプスブルク家の伸長」の解説

オーストリア公国」および「ハプスブルク君主国」を参照 ハプスブルク家ルドルフ1世アルブレヒト1世フリードリヒ美王三代わたってローマ王対立王含む)を輩出した後、しばらく歴史表舞台から姿を消した。美王の跡をついだアルブレヒト2世 (オーストリア公)賢公1315年スイス誓約同盟ドイツ語版英語版)(Eidgenossenschaft)にモルガルテンの戦い、に敗れて発祥の地事実上失った。しかしスイスへのこだわり捨ててオーストリア内政勤しんだ。1335年にはケルンテン公領、クライン公領 (en) を皇帝ルートヴィヒ4世から拝領している。皇帝カール4世治世賢公の跡を継いだルドルフ4世は、金印勅書定められ選帝侯オーストリア含まれていないことを不満に思った。そして選帝侯上回る特権を持つ「大公」(Erzherzog)なる称号自称し特許状偽造し皇帝送りつけた。皇帝はこれを挑発見抜いてうやむやにしたが、否定もされなかった特許状ハプスブルク家発展布石となった時代下り皇帝ジギスムント死後にその娘婿となっていたオーストリアアルブレヒト5世ボヘミア王ハンガリー王相続した1438年にはアルブレヒトローマ王選出されローマ王アルブレヒト2世となった。しかし、僅か1年ほどで急死オーストリアボヘミア、後にハンガリーアルブレヒト死後生まれた息子ラディスラウス・ポストゥムス継承した。しかしローマ王には1440年アルブレヒト又従兄弟であるフリードリヒ3世24歳選出された。 フリードリヒ3世は「帝国第一就寝帽」「神聖ローマ帝国大愚図」と評されるほどの無能な人物だった。決断力欠けて臆病で気が弱く、常に借金追われ、けちであり、長所忍耐力のみだった。王は即位するラディスラウス存在怯えてすぐさま監禁しオーストリアを弟と共同統治した。1442年ローマ王として正式に戴冠同年英仏百年戦争終結している。1450年以降ラディスラウスを自由の身にするよう求めオーストリア貴族同盟結成した1452年に王はラディスラウス連れ結婚式皇帝への戴冠式兼ねてイタリア逃亡したポルトガル王女エレオノーレ結婚して持参金を得、36歳皇帝にも戴冠したが、首都ウィーン戻ったところでラディスラウス解放せざるを得なかった。 1453年コンスタンティノープル陥落しビザンツ東ローマ帝国滅亡するオスマン帝国脅威迫ってきた。1457年ラディスラウス都合良く死去して皇帝名実ともにオーストリア得たが、存亡の危機にあるハンガリー貴族救国英雄フニャディ息子マーチャーシュ1世ハンガリー王選出したマーチャーシュ有能で、ワラキアセルビア次々領土拡張したこうした中、貧乏だが権威を持つ皇帝と、皇帝権威を狙う豊かなブルゴーニュ公シャルル突進公)の利害一致し皇帝嫡男マクシミリアン1世突進公の一人娘マリー婚約1473年実現した1477年突進公が都合良く戦死しブルゴーニュハプスブルク家のものとなった。しかし1479年ハンガリーマーチャーシュオーストリアにまで来襲し、1485年にはウィーン占領された。これをきっかけに、マクシミリアン1世ローマ王戴冠した1490年都合の良いことにマーチャーシュ嫡子無く死去したため、皇帝オーストリア回復した1493年皇帝77歳死去自発的に行動しなかった53年在位中、神聖ローマ帝国概ね平和だった。特にイタリアで滅亡したビザンツから流れてきた文化人により、ルネサンス最盛期迎えたまた、ルドルフ4世大特許状密かに帝国法に組み込み帝位世襲布石打っている。婚姻政策成功しており、結果としてハプスブルク家発展の道を開くことになった神聖ローマ帝国初めて「ドイツ人の」という接頭語をつけたのもこの皇帝である。 マクシミリアン1世フランスとの戦争通じ消極的ながらもドイツ近世国家移行させた。父帝死去直後1494年35歳の王はイタリア半島侵攻していたフランス王シャルル8世との戦争状態に入りイタリア戦争始まった。翌1495年、王は諸侯軍資金求めヴォルムス帝国議会開催し、さらに全ドイツ国民から税を徴収する一般帝国税(Gemeiner Pfennig)の導入兵士の提供を求めた。これに対しマインツ大司教中心とした諸侯代表たちは諸改革案を提案した当時ドイツには新体制構築しようとする帝国改造(Reichsreform)が求められていた。王は妥協して同意した。なお「帝国改造とは言うものの改革対象ドイツのみである。イタリアは既に帝国行政範囲外であった帝国改造根本治安維持であり、決闘禁止である。古代よりゲルマン貴族には決闘による報復権利回復広く認められていた。これをフェーデと言う。しかし略奪目的言いがかり多かった期間限定フェーデ禁止する「平和令」はたびたび出されていたが、帝国改造ではこれを徹底したのである帝国改造フェーデを完全に禁止する永久ラント平和令(Ewiger Landfriede)、フェーデに代わって封臣間の政治的争い解決する帝国最高法院(Reichskammergericht)の設置、及び帝国最高法院選挙区である帝国クライス(Reichskreise)の設置から成る帝国クライス徐々にドイツ自立的な地方行政区分へと変化し治安維持実務徴税帝国軍編成管理運営加え17世紀には国防をも担っていく。なお、帝国クライス同時に設置され中央政府帝国統治院」の選挙区でもあったが、早くも1502年統治院は廃止されている。また、帝国最高法院には皇帝国王)の権力が殆ど及ばない仕組みだったため、皇帝直轄帝国宮内法院 (Reichshofrat) が1497年設置され二つ最高裁判所併存した。 1508年教皇ユリウス2世要請により、王は大軍率いて帝国外の独立国ヴェネツィア遠征した。しかしイタリア北東部全域併合していたヴェネツィア手強く遠征失敗したヴェネツィア征伐後には皇帝への戴冠式を行う予定だったが果たせず、教皇同意の下で以後ローマ王戴冠せずに皇帝称することになったその後神聖ローマ帝国連戦連敗であり、弱体化明らかだった1512年皇帝は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)の国名公文書用いた神聖ローマ帝国イタリア宗主権主張しつつも、版図がもはやドイツ語圏及びその周辺限られ世界帝国建設という目的放棄も明確となった。こうして中世終わった一方で皇帝個人婚姻政策大成功収めていた。1500年スペイン王フアナ結婚させた息子フィリップカルロスフェルディナント兄弟生まれカルロス1516年スペインナポリシチリア王位15歳継承したフェルディナントハンガリーボヘミア王女結婚し皇帝死後の1526年にこの地をハプスブルク家取り戻した。こうしてハプスブルク家スペインドイツネーデルラントナポリシチリアサルデーニャオーストリアハンガリーボヘミアそして広大なスペイン新大陸領土治める「普遍的君主制」(monarchia universalis)に君臨し神聖ローマ帝国とは別の世界帝国成立しつつあった。1519年皇帝59歳死去。孫のスペイン王カルロス1世19歳皇帝選出され神聖ローマ皇帝カール5世となった

※この「ハプスブルク家の伸長」の解説は、「神聖ローマ帝国」の解説の一部です。
「ハプスブルク家の伸長」を含む「神聖ローマ帝国」の記事については、「神聖ローマ帝国」の概要を参照ください。

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