ハプスブルク家による支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:49 UTC 版)
「モラヴィア辺境伯領」の記事における「ハプスブルク家による支配」の解説
オーストリア大公フェルディナンド1世が1526年にボヘミア国王に即位すると、モラヴィア辺境伯領はハプスブルク帝国の構成国となった。 1608年はボヘミアとモラヴィアが分割統治された最後の年となった。モラヴィアの地は神聖ローマ皇帝ルドルフ2世への対抗者としてのマティアスを支持したのである。1611年にルドルフ2世がマティアスにボヘミア王位を譲位したが、モラヴィアはウィーンから直接にハプスブルク家(モラヴィア辺境伯の称号を有した) の支配下に置かれた。 1804年にモラヴィア辺境伯領はオーストリア帝国の地区となり、 1867年にはオーストリア=ハンガリー帝国におけるツィスライタニエンの王冠領の一部となった。
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