ハプスブルク家との抗争とは? わかりやすく解説

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ハプスブルク家との抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 05:09 UTC 版)

バイエルン選帝侯領」の記事における「ハプスブルク家との抗争」の解説

選帝侯位を獲得したバイエルン系ヴィッテルスバッハ家は、かつてそうであったように、次第神聖ローマ帝国内におけるハプスブルク家対抗馬として頭角顕していくことになる。第3選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルは、最初の妃マリア・アントニア皇女スペイン・ハプスブルク朝最後国王カルロス2世の姪であったことから、その嫡子ヨーゼフ・フェルディナントが王位継承者としてアストゥリアス公叙されマクシミリアン2世自身スペイン領ネーデルラント総督任命された。しかしヨーゼフ・フェルディナントは夭折しスペイン王位にはフランス王ルイ14世の孫で、マクシミリアン2世の姉マリア・アンナ息子でもあるフェリペ5世就いたマクシミリアン2世新国王の叔父として引き続きネーデルラント総督地位認められた。 フェリペ5世即位巡ってスペイン継承戦争勃発すると、マクシミリアン2世フランス側就いたが、1704年ブレンハイムの戦いでオーストリア・イギリス連合軍敗北してバイエルン占領されネーデルラントへの亡命余儀なくされた。ネーデルラント1706年ラミイの戦い敗北したことで喪失フランスへ亡命した8年後の1714年バーデン和約で、マクシミリアン2世バイエルン回復することが出来た1740年皇帝カール6世没し、その娘マリア・テレジアと夫のロレーヌ公フランツ・シュテファン後を継ぐことになったが、周辺諸国はこれに異議唱えてオーストリア継承戦争勃発するハプスブルク家対抗馬として担ぎ出されたのが、ヨーゼフ・フェルディナントの異母弟マリア・アマーリエ皇女を妻に持つカール・アルブレヒト選帝侯であり、本人皇帝位への野心を隠さなかった。カール・アルブレヒト1741年チロルボヘミア上オーストリア占領し、翌1742年には皇帝カール7世として戴冠行った。しかし、ハンガリーからの援軍得たマリア・テレジア反撃転じ領土奪還したのみならずバイエルンをも占領する至ったカール7世1745年失意のうちに没し、後を継いだ息子マクシミリアン3世ヨーゼフ同年フュッセン条約フランツ・シュテファン皇帝位認めた

※この「ハプスブルク家との抗争」の解説は、「バイエルン選帝侯領」の解説の一部です。
「ハプスブルク家との抗争」を含む「バイエルン選帝侯領」の記事については、「バイエルン選帝侯領」の概要を参照ください。

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