ハプスブルク家との対立とは? わかりやすく解説

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ハプスブルク家との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 08:45 UTC 版)

パウルス4世 (ローマ教皇)」の記事における「ハプスブルク家との対立」の解説

しかし、カラファが教皇選ばれたのは大多数人々にとって意外な出来事であった。彼が78歳という高齢であったことに加え、その頑迷にして非妥協的な性格からとて教皇職を引き受ける気にはならないだろうと思われていたのである。しかし彼はカール5世強力な反対知って、あえてこれを受けたパウルス4世名乗った教皇教皇庁大国思惑左右されている現状改善することに情熱注いだ教皇ハプスブルク家犬猿の仲であったが、それは色々な場面で現れた。1555年成立したカトリックとプロテスタントアウクスブルクの和議反対、翌1556年カール5世皇帝退位と弟のフェルディナント1世即位いずれも反対教皇権威を増すべくフランス王アンリ2世手を組みスペイン同盟与した一方パウルス4世も他のルネサンス教皇たちのようにネポティズム親族登用主義)を避けることができなかった。即位直後に甥で評判の悪い傭兵隊長だったカルロ・カラファ(英語版)を枢機卿任命別の2人の甥も枢機卿登用しコロンナ家から奪った領土与えて資産増加便宜はかった親族与えられ資産多くスペインよりの人々から没収したものであった。しかし枢機卿登用しカルロらカラファ一族横暴目にあまるものであり、教皇カルロ勧めと反スペイン感情に引きずられ、カール5世息子スペイン王フェリペ2世攻撃仕掛けようとスペインとの戦争踏み切ったが、彼の外交における失政スペインとの軋轢結果1557年9月にはナポリ副王アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド率いスペイン軍ローマ進軍する事態至ったローマ略奪再来予感される中、アルバ公教皇和睦を結び、教皇の方は反スペイン同盟からの離脱余儀無くされた。さすがにここにいたってカルロ解任され、他の甥達共々追放されたが、教皇顔に泥を塗ることになった

※この「ハプスブルク家との対立」の解説は、「パウルス4世 (ローマ教皇)」の解説の一部です。
「ハプスブルク家との対立」を含む「パウルス4世 (ローマ教皇)」の記事については、「パウルス4世 (ローマ教皇)」の概要を参照ください。

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