北西ヨーロッパ都市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:20 UTC 版)
ネーデルラント地方には各地から商人が集まり、ハンザ都市やスペインの他にイタリアの都市とも結びつきを強めた。ブリュージュは14世紀からジェノヴァやヴェネツィアと取り引きが盛んになる。イタリアの商船はミョウバン、染料、ワインを下ろしてイギリスの羊毛や毛織物を地中海へ運び、メディチ家もブリュージュに拠点を置いた。ポルトガルが西アフリカで入手した象牙、金、砂糖もブリュージュへ運ばれた。ヨーロッパで砂糖の消費が増え、大西洋で行われる砂糖貿易のひな型が15世紀にはできあがっていた。ブリュージュはハプスブルク家との対立で衰退して、かわってアントウェルペンがケルンの商人を介してイギリス産の毛織物を扱って急成長する。やがてポルトガルはアフリカを周回してインド洋の香辛料を直接運べるようになり、アントウェルペンは地中海を介さずに香辛料を扱ってさらに発展した。アントウェルペンはポルトガルの商館をはじめ外国人を積極的に招き、16世紀に最盛期を迎える。 16世紀後半にはスペイン・ハプスブルク朝がプロテスタント弾圧を強め、アントウェルペンが陥落する。現地の商人たちは、アムステルダム、ロンドン、ハンブルクへ移住した。そのため3つの都市は貿易や金融で類似点を持ち、ときには補完関係やリスク分散を行いつつ繁栄した。アムステルダムは、スペインやポルトガルの異端審問を逃れて移住したユダヤ人の資金も流入して、金融技術の発達にともなってヨーロッパの金融センターとなる。法学者グロティウスが公海と自由貿易を論じた『自由海論』も、この時代に書かれている。 ハンブルクは大陸ヨーロッパにおいてアムステルダムに次ぐ港湾都市となり、16世紀から18世紀にかけて中立都市として栄え、他の都市が交戦中でも各国と貿易を行っていた。西ヨーロッパで開催されていた大規模な国際定期市は次第に内陸へと移り、ライプツィヒやフランクフルトのように見本市として存続する場合もあった。ロシアではマカリエフの定期市やニジニ・ノヴゴロドの定期市で、毛皮、茶、絹といったヨーロッパとアジアの物産が集められた。
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