北西地方の征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 03:07 UTC 版)
カーブルを中心としたアフガニスタンは中央アジアのウズベク勢力やイランのサファヴィー朝に対する前線地帯であり、グジャラートやベンガルとは違った意味で重要な地域であった。この地域はアクバルの弟でカーブル太守ミールザー・ハキームが支配していたが、彼はウズベク兄弟の反乱にも参加するなど中央に反抗的であった。 1580年から1581年にかけて、ミールザー・ハキームの乳兄弟マースーム・ハーン・カーブリーがベンガル・ビハール地方で大規模な反乱を起こした。ミールザー・ハキームもこれに同調し、帝国を東西から挟撃しようと共謀した。 ベンガル・ビハールの反乱はアクバル最大の危機でもあり、王座が揺さぶられるほどの出来事であった。この反乱の原因は中央政府の行政改革の強行や、1579年にベンガル太守となったムザッファル・ハーンと中央から派遣された官僚との関係悪化、それによる政務の停滞などがあげられる。 アクバルはトーダル・マルを派遣し鎮圧にあたらせ、ベンガル太守ムザッファル・ハーンを問責する命令を発し反乱を押さえようとした。だが、宮廷内でも彼らへの内通者が続々と発覚したうえ、反乱はついにパトナにまで及んだ。 1580年4月、ターンダーに退いた太守ムザッファル・ハーンは殺害され、鎮圧を指揮していたトーダル・マルがモンギールで長期にわたり籠城を強いられたこともあった。 1580年12月、ミールザー・ハキームの武将がパンジャーブに侵入したが、これは直ちに撃退された。だが、今度はミールザー・ハキーム自らが15000騎を率いて侵入してきた。アクバルはこれに断固とした態度を取り、1581年2月に大軍を率いてアフガニスタンへ遠征を行い、カーブルへと向かった。軍には8か月分の給料が払われ、その総兵力は5万人、象5000頭であった。 8月、アクバルはミールザー・ハキームをヒンドゥークシュ山脈に敗走させ、カーブルへと入城した。その後、後任のカーブル太守に妹のバフトゥンニサー・ベーグムを任じた。 一方、ベンガル・ビハールの反乱では苦戦が続いていた。だが、アクバルのカーブル入城からほどなくして鎮圧された。 1585年、ミールザー・ハキームが死亡すると、ウズベク系シャイバーニー朝ブハラ・ハーン国がカーブルに対してさらに圧力をかけるようになった。その君主アブドゥッラー・ハーン2世はアフガン系部族の協力のもと、バダフシャーンを制圧していた。アクバルはこれを見て、首都をファテープル・シークリーからラホールに移し、カーブルを帝国直轄地化した。 また、アクバルはアブドゥッラー・ハーン2世と協定を結んだのち、アフガン系部族、特にユースフザイ族の鎮圧に取り組んだ。このユースフザイ族は強力であり、1586年にはアクバルの腹心ビールバルが殺害されるなど苦戦を強いられるなどしたが、最終的に諸部族を支配下に置いた。この戦いにより、カイバル峠から中央アジア・西アジアに抜ける交易路が確保できた。 また、同じ1586年にアクバルはカシミール・スルターン朝も滅ぼし、1589年までにカシミール地方の征服も完了した。1591年にシンド地方も同様に制圧し、1593年にはシンド地方の君主がラホールに赴いて、アクバルに臣従の誓いを立てている。こうして、ヒマラヤ山系の要衝カシミール、インダス川下流域のシンド地方がムガル帝国の領土に加えられた。 1598年、アブドゥッラー・ハーン2世が死亡し、北西方面におけるウズベクの脅威が減少した。アクバルは北西方面における安泰を確保すると、アーグラへと帰還した。
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