北西ヨーロッパ
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「ブライアン・ホロックス」の記事における「北西ヨーロッパ」の解説
ホロックスが「別の軍団がほしい」と、帝国総参謀長(英語版)のアラン・ブルック元帥に言えるまでに回復するには、約1年を要した。1944年8月に中将に復帰を果たすと、ドイツの第7軍と第5装甲軍の包囲戦であるファレーズ・ポケットで第30軍団の指揮を執るため、フランスに派遣された。モントゴメリーが、2ヶ月前のノルマンディー上陸作戦以来、第30軍団とその司令官であるジェラルド・バックナル(英語版)の戦績に不満を感じていたことによる人事である。ホロックスは続くベルギー侵攻時も第30軍団の指揮を執り、ブリュッセルを占領した。一時は、わずか6日間で250マイル (400 km)も進軍している。フランスの主要な深水港は未だドイツが占領しており、連合国の補給線はノルマンディーの海岸までのびていたため、物資の補給問題は常に懸念事項であった。モントゴメリー麾下の第21軍集団(英語版)は港から300マイル (480 km)離れた場所で作戦を展開していたが、これは兵站計画における想定距離の2倍であったため、第30軍団はアントウェルペン港(英語版)を防衛する目的でアントウェルペンに派遣された。9月初旬に第11機甲師団(英語版)がアントウェルペンを陥落させたが、モントゴメリーは再補給のために第30軍団をアルベール運河の手前で停止させたため、結果的に敵の手中に留まってしまった。燃料があればあと100マイル (160 km)は進軍できただろうと、ホロックスは戦後になって後悔の弁を述べているが、これが遅れることなく達成できたかどうかは疑いの余地がある。連合国軍側は気がついていなかったが、このときの第30軍団の相手はドイツの1個師団のみだった。その間にドイツ軍はスヘルデ川周辺で再編成を行っており、連合国軍が進撃を再開する頃にはドイツの第1降下猟兵軍(クルト・シュトゥデント指揮)が到着して、運河の対岸に強固な防衛陣を構築していた。アントウェルペンから北海まで、スヘルデ川に沿ってのびるドイツの防衛陣を撃破する任務はカナダ第1軍(英語版)に与えられ、1ヶ月に及ぶスヘルデの戦いが展開された。9月中旬、第30軍団は再び東へと移動した。 9月、元帥に列せられたモントゴメリーは、コードネームを「マーケット・ガーデン作戦」とする、ライン川を越えてドイツの工業地帯へ突入する野心的な作戦を第21軍集団の優先事項とした。ホロックス率いる第30軍団は地上攻撃を担い、空挺部隊が守備する回廊地帯を抜けて、4日以内にアーネム(英語版)の第1空挺師団(英語版)と合流する予定になっていた。しかし、結果として第30軍団はアーネムに到着することができず、ドイツ軍の攻撃に晒された第1空挺師団は9月21日までに師団の4分の3を失った。戦後の分析では、ホロックスの部下が事の緊急性を欠いていたためと指摘する声もあれば、第1連合空挺軍(英語版)の軍事情報によって、この地域のドイツ軍の防衛力が大きく過小評価されていたためとする指摘もある。特に重要だったのは、連合国軍のノルマンディー上陸後、休息と再装備のためアーネムへ送られた2個SS装甲師団の残存兵力を見誤ったことである。情報では、オランダには「少数の歩兵部隊と、50~100両ほどの戦車」しかいないと報告されていた。ヴァルター・モーデル元帥率いるB軍集団が反撃に出ると、ホロックスの部隊は防戦に徹することになり、イギリス軍を停止させて側面を固めたことで進軍に遅れが発生した。ホロックスの部隊がいたのは移動に不向きな場所であり、前衛を務める近衛機甲師団(英語版)は、平地もしくは浸水した田園地帯を通る1本の細い高架道路の通過を余儀なくされた。アーネムからわずか8マイル (13 km)の距離にあるナイメーヘン橋は、作戦初日に第508落下傘歩兵連隊(英語版)が占領する予定であったが失敗し、2日後に到着した第30軍団がその攻略を支援することになったためさらに36時間の遅延が生じた。ホロックスは、マーケット・ガーデン作戦の失敗を個人的に責められてはいない。作戦中、アメリカのジェームズ・ギャビン准将率いる第82空挺師団がホロックスの指揮下に入ったが、後にギャビンは以下のように記している。 彼は実に個性的な将官であり、そのリーダーシップの資質は、私がこれまで出会った誰よりも優れていた。アメリカの軍事学校で講義をしたときには、戦時中に出会った中でホロックス将軍が最も優れた将官であり、最も優れた軍団司令官だと頻繁に述べた。 — ジェームズ・ギャビン バルジの戦いが起こると、モントゴメリーはホロックスを第30軍団司令官から一時的に解任し、イギリスで休養を取らせた。彼は、ホロックスが「神経質で部下との関係が悪くなり」、第30軍団で「愚かな行動を取ろうとした」ために、このような処分を下した。ホロックスが外れている間、第30軍団司令官は臨時で第43(ウェセックス)歩兵師団(英語版)司令官のアイヴァー・トーマス(英語版)が兼任している。 1945年初頭、第30軍団はライン川を渡河してドイツ軍を撤退させるヴェリタブル作戦(英語版)に参加した。このとき、軍団は大規模な火器を駆使し、「過去2年半の間に学んだあらゆる技術を投入し、新たな技術も追加された」と言われるほど全力を注いだ。また、短期間ではあったが、第30軍団は9個師団を指揮下に置いていた。作戦前、ホロックスは王立空軍爆撃司令部(英語版)を用いてクレーヴェを爆撃し、第15(スコティッシュ)歩兵師団(英語版)の進軍を支援する申し出を受けた。ホロックスはこれを許可したため、爆撃機は1,384ロングトン (1,406 t)もの高性能爆薬榴弾をクレーヴェに投下し、街を壊滅させた。ホロックスは後に、このときの決断は「私の人生で最も恐ろしい決断」であり、実際に頭上に飛来する爆撃機を見たときは「体調が悪い」と感じたと語っている。ヴェリタブル作戦は成功を収め、2月9日の夕刻には少しの死傷者は出したものの、第30軍団はジークフリート線を突破してドイツに侵入した。4月26日にはブレーメンが陥落し、近郊のザントボステルにあった強制収容所シュタラークX-B(英語版)が暴かれた。その後、軍団はクックスハーフェンで終戦を迎えた。 ホロックスは、北西ヨーロッパでの功績によって1945年3月22日と8月9日の2度殊勲者公式報告書に記載され、7月5日には大英帝国勲章ナイト・コマンダーに列せられた。その他、ベルギー(従軍十字章1940年章(英語版)、王冠勲章グランド・オフィサー(英語版))、フランス(1914年-1918年従軍十字章(英語版)、レジオンドヌール勲章コマンドゥール)、オランダ(オラニエ=ナッサウ勲章ナイト・グランド・オフィサー(英語版))、ギリシャ(ゲオルギオス1世勲章コマンダー(英語版))、アメリカ合衆国(レジオン・オブ・メリット勲章コマンダー)の各国からも叙勲されている。
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