ハプスブルク家における近親婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 19:47 UTC 版)
「スペイン・ハプスブルク朝」の記事における「ハプスブルク家における近親婚」の解説
スペイン・ハプスブルク家およびオーストリア・ハプスブルク家では、一族内での近親婚が繰り返された。また、フェリペ2世以降は3親等間での結婚(叔姪婚)が増える。それには以下の要因があった。 厳格なカトリック政策で、プロテスタントや正教会の王侯との結婚ができない。 ヨーロッパ屈指の名門であり、家格の低い諸侯との結婚ができない。 結果、縁組できるのはフランス王家、ポルトガル王家、ボヘミア=ハンガリー王家、ポーランド=リトアニア王家、オーストリアの同族のいずれかに絞られることになった。しかし、フランスとは三十年戦争(1618年 - 1648年)以来敵対関係になり、ポルトガル王家はフェリペ2世以後スペイン王家と同一に、ボヘミア=ハンガリー王家はフェルディナント1世以後オーストリアの皇帝家と同一になり、ポーランド=リトアニアではヴァーサ家の断絶後は王位の世襲が絶えて特定の「王家」が存在しなくなった。そのため、オーストリア・ハプスブルク家との間での結婚、つまりフェリペ1世の息子カルロスとフェルディナントの子孫の間で近親婚が繰り返された(しかもカルロス1世の代ですでにいとこ婚を行っている)。その結果フェリペ4世の子のカルロス2世は遺伝子系の疾患を持って生まれて早世、後継ぎもなく断絶したと言われる。 スペイン・ハプスブルク家の近親婚の程度を示す近交係数をコンピュータで計算してみたところ、初代フェリペ1世のときには0.025だった数値が、末代のカルロス2世では0.25にまで上昇していた。その間に行われた11組の結婚のうち、9組が叔姪婚であった。また、0.2以上の近交係数の王族も複数いたことが判明している。スペイン・ハプスブルク家内の乳児死亡率は、当時の農村部の乳児死亡率より高かった。 表・話・編・歴 スペイン王カルロス2世の先祖 マヌエル1世ポルトガル王1469年–1521年 マリアアラゴン・カスティーリャ王女1482年–1517年 フアナカスティーリャ女王1479年–1555年 フェリペ1世カスティーリャ王1478年–1506年 イサベルポルトガル王女1503年–1539年 カール5世神聖ローマ皇帝1500年–1558年 フェルディナント1世神聖ローマ皇帝1503年–1564年 アンナボヘミア・ハンガリー王女1503年–1547年 イサベル1501年–1526年 クリスチャン2世デンマーク王1481年–1559年 フェリペ2世スペイン王1527年–1598年 マリア1528年–1603年 マクシミリアン2世神聖ローマ皇帝1527年–1576年 カール2世オーストリア大公1540年–1590年 アンナ1528年–1590年 アルブレヒト5世バイエルン公1528年–1579年 クリスティーヌ1522年–1590年 フランソワ1世ロレーヌ公1517年–1545年 アナ1549年–1580年 マリア・アンナ1551年–1608年 ヴィルヘルム5世バイエルン公1548年–1626年 レナータ1544年–1602年 フェリペ3世スペイン王1578–1621 マルガレーテ1584年–1611年 フェルディナント2世神聖ローマ皇帝1578年–1637年 マリア・アンナ1574年–1616年 フェリペ4世スペイン王1605年–1665年 マリア・アナ1606年–1646年 フェルディナント3世神聖ローマ皇帝1608年–1657年 マリアナ1634年–1696年 カルロス2世スペイン王1661年–1700年
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