ハプスブルク家との抗争とスイスの政治的独立
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ハプスブルク家との抗争とスイスの政治的独立」の解説
スイスの建国神話として今日一般にヴィルヘルム・テルの物語が知られるが、これはスイスの国民意識が高まった15世紀中ごろに世に広まりはじめたものであると考えられている。 1200年ころ、ゴッタルド峠(ザンクト・ゴットハルト峠)が開削されると、多くの商人がこの新しい峠を好んで利用するようになり、それまで周囲からの隔絶で僻地とされてきたウーリ地方は、交通の要衝とみなされるようになった。ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、この地の支配権をハプスブルク家に担保として提供し、イタリア政策の遂行資金にあてようとしたが、峠の開通で比較的富裕になっていたウーリの住民は自力で抵当を解除した。1231年、フリードリヒ2世によってドイツ統治を任されていたハインリヒは証書を発給してウーリは「帝国自由」(帝国直属)の地位を獲得することができた。これにより、ウーリは近隣領主の支配を受けず、「自由と自治」を享受できるようになった。1239年には同じくシュヴィーツ地方も帝国直属の地位を獲得した。ニトヴァルデン、オプヴァルデンの両渓谷地方(合わせてウンターヴァルデンという)もウーリやシュヴィーツと同等の地位を願ったが、これは簡単ではなく、1291年8月1日にはウーリ、シュヴィーツ、東部のニトヴァルデンが「永久同盟」を結び、同年12月には西部のオプヴァルデンも盟約に加わった。 1314年冬、放牧地を巡る争いからシュヴィーツがアインジーデルン修道院を襲撃すると、これを口実にハプスブルク家のフリードリヒ3世(美王)は1315年11月15日大軍をもってスイスに侵攻したが、原初三邦(ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンをスイス形成の核になった地域という意味でこう呼ぶ)の農民軍はモルガルテン山からの奇襲攻撃により、これを壊滅した(モルガルテンの戦い)。こののち、12月9日には盟約が更新され、スイス盟約者団はさらに結束を強化した。14世紀には、ルツェルン(1332年)、チューリヒ(1351年)、グラールス(1352年)、ツーク(1352年)、ベルン(1353年)の各地域が原初三邦の盟約に加わり、八邦同盟の時代と呼ばれた。ただし、八邦同盟は決して一枚岩ではなく、内容も質も異なる複数の盟約のゆるい結合であり、すべての同盟に加わっているのは原初三邦だけであった。こののち、14世紀から15世紀を通じてスイス盟約者団とハプスブルク家との抗争は続き、15世紀に入るとその力関係は逆転し、盟約者団はハプスブルク家の勢力をスイスから駆逐していった。 1499年、ハプスブルク家出身の皇帝マクシミリアン1世がスイス盟約者団によって古領を奪われたとして戦争を仕掛けたが(シュヴァーベン戦争)、盟約者団はこれを撃退し、この勝利によって事実上神聖ローマ帝国からの独立を果たした。そして、盟約者団(近世スイス(英語版))は1513年のカントン・アペンツェル(英語版、ドイツ語版)の加盟によって13の地域が結合する国家団体となり、今日のスイスの基本的な国家枠組みにつながる十三邦同盟体制が確立し、この体制は1798年まで維持されていった。 長期の軍事的緊張を乗り越えたスイスは、ヨーロッパ有数の軍事力を持つ国家となっていた。強力な軍事力を頼んでスイスは当時のイタリア戦争に介入し、一時はミラノ公国を保護国化する勢威を示し、1513年のノヴァーラの戦いでは強大なフランス軍を大敗させ、ロンバルディア地方に覇権を確立した。ところが、1515年にルイ12世が没し、名君として知られるフランソワ1世が登位すると、同年のマリニャーノの戦い(英語版)では盟約者団はこの若き王に大敗北を喫し、以後のスイスは南方へ向けての膨張政策を完全に断念した。しかし、フランスは積極的にスイスの傭兵を軍事的に重視し、これを頼りにする策に転じていった。
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