ハプスブルク家と神聖ローマ帝国
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「オーストリアの歴史」の記事における「ハプスブルク家と神聖ローマ帝国」の解説
詳細は神聖ローマ帝国を参照 1438年以降、神聖ローマ皇帝はオーストリア大公・ハプスブルク家が世襲するようになり、15世紀にはマクシミリアン1世は結婚政策でブルゴーニュ、フランドル、スペインにも家領を持つようになる。 マクシミリアンの孫のカールはスペイン王カルロス1世となり、フランスのフランソワ1世と熾烈な皇帝位争いをへて神聖ローマ皇帝カール5世となった。スペインは大航海時代の成果として新大陸に植民地を有しており、ハプスブルク家は「太陽の沈まない帝国」となった。 しかし、ドイツではマルティン・ルターの宗教改革がはじまり、神聖ローマ帝国は動揺した。弟のフェルディナントはモハーチの戦いで敗死したラヨシュ2世からハンガリー・ボヘミア王の位を継承し、ハンガリー、ボヘミアもハプスブルク家の支配下におかれた。これによってハプスブルク帝国は多民族化が進むと同時に第一次ウィーン包囲以来オスマン帝国と勢力圏が接するようになった。1556年カール5世が退位すると、息子のフェリペ2世がスペイン王位を継承し、フェルディナントがオーストリアと皇帝位を継承した。フェルディナント1世は1555年のアウクスブルクの和議で兄皇帝に代わりプロテスタントに一定の譲歩を示す形で和解したが、以後の皇帝たちはカトリック重視の政策をとりプロテスタント諸侯との対立を強めた。 カトリック強硬派のフェルディナント2世が即位すると1618年にプラハ窓外投擲事件が起き、三十年戦争が始まった。フェルディナント2世は神聖ローマ帝国を「カトリック帝国」にすべく戦争を推し進めるが、それにプロテスタント諸侯が反発し、さらにデンマーク、スウェーデンが介入した。さらにハプスブルク家の強大化を怖れたフランスもカトリック国にもかかわらず介入した。1648年のヴェストファーレン条約では信仰の自由と諸侯の自由が認められ、事実上神聖ローマ帝国の実態は失われ、ハプスブルク家によるドイツ統一は不可能となった。 以降、ハプスブルク家はオーストリアとボヘミア、ハンガリーなどの「家領」の支配を強化し絶対君主制の基礎を固めて行った。1683年にはオスマン帝国による第二次ウィーン包囲に遭うが守り抜き、攻勢に転じ、1699年にカルロヴィッツ条約を結んだ。その結果、ハンガリー全域とクロアチアを獲得した。スペイン継承戦争ではブルボン家の王位継承を認めたが、南ネーデルラント、ミラノ公国、ナポリ王国を獲得した。 この頃に即位したカール6世には男子がいなかったため、家領不可分と長子相続を条件に定めた国事勅書をだし、娘のマリア・テレジアを後継者とした。しかし、マリア・テレジアが即位すると、諸侯は異議を唱え、プロイセン王国のフリードリヒ大王がシレジアに侵攻した。1740年にはオーストリア継承戦争が起こり、その結果、マリア・テレジアの継承は承認されたがシレジアは回復できなかった。 マリア・テレジアは皇女マリア・アントニアをフランス王太子(後のルイ16世)と婚約させ、200年来の敵対関係を終結させ(外交革命)、対プロイセン包囲網を結成した。1756年からの七年戦争ではロシア帝国とともにプロイセンを窮地に追い込むものの、最終的な勝利には至らずシレジアの回復にも失敗した。その後、ポーランド分割に参加した。晩年のマリア・テレジアは息子のヨーゼフ2世と共同統治を行い、彼女が没するとヨーゼフ2世が親政を開始した。 ヨーゼフ2世は啓蒙主義の影響を受けて、農奴制廃止などの近代化政策をとったが、広範な支持を得られず、失意のなかで没した。1789年にフランス革命が勃発するとピルニッツ宣言をプロイセン王とともに出し、ルイ16世が処刑されると革命に介入する。さらに第一次対仏大同盟にも参加した事でフランス革命戦争へと巻込まれていった。フランスでナポレオン・ボナパルトが皇帝に即位するとアウステルリッツの戦いを戦い。その後バイエルンの離反、ライン同盟の結成などドイツ諸侯が帝国議会から脱退したため、フランツ2世は1806年に神聖ローマ皇帝を退位、オーストリア皇帝フランツ1世と称した。
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