ハプスブルク君主国の解体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 08:57 UTC 版)
「ドナウ連邦構想」の記事における「ハプスブルク君主国の解体」の解説
1914年7月14日、サラエボ事件によって勃発した第一次世界大戦は、開戦当初は帝国内の少数民族を結束させたが、国民生活が困窮に追い込まれた大戦末期にはむしろ分離・独立を志向させるようになった。1918年にロシア革命が勃発したこととドイツ帝国の相次ぐ敗退は、これまで両強国に挟まされていた諸民族の自治要求運動の方向を転換させていった。10月16日、皇帝カール1世は帝国連邦化の勅令を出したが、10月末には諸民族はこれを退けて次々と独立を宣言していった。 オーストリアと新たな諸独立国は別個の道を歩み始めたが、ハンガリーでは独立ばかりが論じられていたわけではなかった。諸民族は歴史的・経済的・地理的に密接に結びついており、あえて分断すれば、各国間に新たな少数民族問題を抱え込むことになる、とブルジョア急進党党首ヤーシ・オスカール(英語版)らが主張したのだった。コシュート・ラヨシュが1862年に述べた「連邦化を行わないハンガリーは、二・三流の勢力にすぎないが、連邦化するならば、一挙にヨーロッパの大国に成長するだろう」という大国化の理念に基づき、ハンガリーが中心となって「ドナウ連邦」を実現させることが考えられていたのである。 また、スイスに亡命した皇帝カール1世も、ハプスブルク家とドナウ流域諸国の未来を考え、以下の見解を持っていた。 中欧諸国の経済力は脆弱なため、経済共同体を作るべきである。彼らは帝国時代には長い年月にわたり、相互扶助を必要としていたため、さらに横の連携も必要である。基本的に独立した個々の国家を統合する君主体制下のもとで、このような共同体は成立可能である。
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