サラエボ事件
別名:サライェヴォ事件、サラエヴォ、サラェボ事件
1914年、オーストリア皇太子夫妻が、当事オーストリア(オーストリアハンガリー帝国)に併合されていたボスニア・ヘルツェゴビナの都市サラエボで殺害された事件。第一次世界大戦の引き金となったことで知られている。
オーストリア皇太子はオーストリア大公カール・ルートヴィヒの子息で、オーストリアの帝位継承者だった。ボスニア・ヘルツェゴビナは各国の勢力争いの場となった上に、オーストリアに支配されるなどの経緯を経て、汎スラヴ主義や大セルビアといった民族主義思想が高まっていたという背景がある。
サラエボ事件を受けてオーストリア側はセルビアに宣戦布告し、そのまま交戦状態に突入した。実行犯となった青年は獄死している。
サラエボ‐じけん【サラエボ事件】
【サラエボ事件】(さらえぼじけん)
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国領サラエボ(現 ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)を訪問していたオーストリア皇太子フェルディナンド夫妻が銃撃を受け、暗殺された事件。
犯人は帝国からの独立を叫ぶセルビアの民族主義者の少年だった。
皇太子を暗殺されたオーストリアはセルビアに宣戦布告。そしてオーストリアと同盟を結んでいたドイツ帝国が参戦。
一方セルビアを助けて、ロシア帝国、大英帝国、フランスが参戦。
これをきっかけに4年にわたる第一次世界大戦が始まるのだった。
サラエボ事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/18 00:04 UTC 版)
サラエボ事件(サラエボじけん、サラエヴォ事件、サライェヴォ事件)は、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者[注釈 1]であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントと妻のゾフィー・ホテクが、サラエヴォ(当時オーストリア領、現・ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)を訪問中、ボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件[4]。この事件をきっかけとしてオーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に最後通牒を突きつけ、第一次世界大戦の勃発につながった[5]。
注釈
- ^ 推定相続人 (heir presumptive)[1][2]。当時の日本の新聞報道では「皇嗣」と表現された[3]。
- ^ ボスニア・ヘルツェゴビナ併合が宣言された翌日(1908年10月8日)には、セルビア政府の働きかけにより、首都ベオグラードでセルビア民族主義組織「ナロードナ・オドブラナ」が結成されており、この組織は「文化的活動」の名目でボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人に反オーストリア的な思想を広め、またベオグラードに移住するよう激励した[20]。その影響下でベオグラードに移住した若者には、「青年ボスニア」の参加者であり、将来的に大公暗殺の実行犯となるガヴリロ・プリンツィプが含まれていた[20][21]。
- ^ 1911年5月には、ナロードナ・オドブラナから分離する形で、テロによる大セルビアの実現を掲げる組織「統一か死か(Ujedinjenje ili smrt)」が、アレクサンダル1世殺害の主犯ディミトリエビッチを中心に結成された[24]。「統一か死か」はそのシンボルマークから、「黒手組(Crna Ruka)」の通称でより一般的に知られるようになった[24]。ナロードナ・オドブラナおよび黒手組のネットワークは、「青年ボスニア」に代表されるボスニア・ヘルツェゴビナ内の革命運動に深く浸透していた[19]。
- ^ 事件後の1910年下半期、ヴァレシャニンはボスニアにおける最後の農民反乱を鎮圧することとなる[26]。
- ^ 車が市庁舎に着いた時の映像が残されており、運転手が車の後ろをチェックする様子が映っている。サラエボ事件当日の映像は、この後の大公らが市庁舎を出る時の映像とこれの2点のみである。
- ^ この写真はプリンツィプ逮捕の模様を写したものとされることが多いが、現代の歴史家は、連行されているのは現場に偶然居合わせたフェルディナント・ベーア(Ferdinand Behr)という人物であると考えている[55]。
- ^ ユリウス暦での表記。グレゴリオ暦の6月28日はユリウス暦の6月15日に当たる[126]。
- ^ オカルトライターとして知られた佐藤有文の著書『怪奇ミステリー』(学習研究社、1973年)や『ミステリーゾーンを発見した』(KKベストセラーズ・ワニ文庫、1986年)にこうした記述が見られる。
出典
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岩田昌征(千葉大学名誉教授)「サライェヴォ事件とヒトラー誕生日」『ちきゅう座』2013年11月12日 - ^ 不破哲三.戦争と帝国主義.東京,新日本出版社,1999年10月,398p..レーニンと『資本論』 ; 4.ISBN 978-4-406-02684-0.p. 24.
サラエボ事件
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「共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の記事における「サラエボ事件」の解説
詳細は「サラエボ事件」を参照 1914年6月28日、ボスニア・ヘルツェゴビナに駐留していたオーストリア=ハンガリー帝国軍を観閲すべく訪れていたフランツ・フェルディナント皇太子夫妻が、訪問を歓迎する群衆に紛れていた刺客によって射殺された。(サラエボ事件) 夫妻を射殺したプリンツィプは学生・生徒の多様な運動体「青年ボスニア」の一員であり、彼に軍事訓練を施し凶器のピストルを与えたのは、1911年に結成された「大セルビア」実現を目指すセルビア系秘密組織「黒手組(統一か死か)」であった。 この組織も先述の秘密結社の1つである。 しかしオーストリア=ハンガリー帝国政府は、彼の裏にあった組織が1908年末にセルビア王国で結成された「民族防衛団(ナロードナ・オドブラナ)」だと考え、セルビア王国政府の手引きによるものとしてセルビア王国に最後通牒を突きつけた。 こうしてオーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国へと宣戦布告し、第一次世界大戦が勃発した。
※この「サラエボ事件」の解説は、「共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の解説の一部です。
「サラエボ事件」を含む「共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の記事については、「共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の概要を参照ください。
サラエボ事件
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詳細は「サラエボ事件」を参照 1914年6月28日、オーストリア大公フランツ・フェルディナント夫妻がサラエボを訪れた際、メルツは大公の車列に加わっていたアレクサンデル・フォン・ボース=ヴァルデック(Alexander von Boos-Waldeck)の運転手を務めていた。 大公の暗殺を図って車列を狙ったネデリュコ・チャブリノヴィッチ(英語版)が投げた爆弾は、大公の車には当たらず、メルツが運転する車両の下で爆発した。これにより、ボース=ヴァルデックや沿道の多くの見物客たちが負傷することとなり、メルツはその当事者となる。 大公の暗殺計画は2段階あり、同日、大公はガヴリロ・プリンツィプの銃撃により死亡した。
※この「サラエボ事件」の解説は、「オットー・メルツ」の解説の一部です。
「サラエボ事件」を含む「オットー・メルツ」の記事については、「オットー・メルツ」の概要を参照ください。
サラエボ事件
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「グラーフ&シュティフト」の記事における「サラエボ事件」の解説
詳細は「サラエボ事件」を参照 1910年12月15日に、1台のグラーフ&シュティフト製高級セダン「ドッペル・フェートン」(エンジン番号287)がフランツ・フォン・ハラック伯爵によって購入された。ハラックの購入したこの車は32PSを発生する4気筒エンジンを搭載していた。1914年のサラエヴォでガヴリロ・プリンツィプがフランツ・フェルディナント大公を暗殺した際に、大公とその妻がハラックと共に乗っていたのがこの車である。この暗殺事件は、宣戦布告及び第一次世界大戦の開戦に直結する一連の外交戦略を呼び起こした。
※この「サラエボ事件」の解説は、「グラーフ&シュティフト」の解説の一部です。
「サラエボ事件」を含む「グラーフ&シュティフト」の記事については、「グラーフ&シュティフト」の概要を参照ください。
サラエボ事件
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「ガヴリロ・プリンツィプ」の記事における「サラエボ事件」の解説
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※この「サラエボ事件」の解説は、「ガヴリロ・プリンツィプ」の解説の一部です。
「サラエボ事件」を含む「ガヴリロ・プリンツィプ」の記事については、「ガヴリロ・プリンツィプ」の概要を参照ください。
サラエボ事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)
詳細は「サラエボ事件」を参照 1914年6月28日、オーストリアのフランツ・フェルディナント大公は共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボを訪問した。ユーゴスラヴ主義(英語版)組織青年ボスニア(英語版)からの暗殺者6人(クヴジェトコ・ポポヴィッチ(英語版)、ガヴリロ・プリンツィプ、ムハメド・メフメドバシッチ(英語版)、ネデリュコ・チャブリノヴィッチ(英語版)、トリフコ・グラベジュ、ヴァソ・チュブリロヴィッチ(英語版))はセルビア黒手組の物資提供を受けて、大公を暗殺すべく大公の車列が通る街道で集まった。チャブリノヴィッチは手榴弾を車に投げつけたが外れ、近くにいた人々が負傷しただけに留まった。大公の車列はそのまま進み、チャブリノヴィッチ以外の暗殺者が動けないのを尻目に無事通過した。 フェルディナントは、爆発で怪我した者の見舞いにサラエボ病院に行ったが、約1時間後の帰りでは車が道を誤って方向転換、ちょうどプリンツィプのいた道に入った。プリンツィプはピストルで大公と大公の妻ゾフィー・ホテクを射殺した。オーストリア人の間では反応が薄く、ほぼ無関心に近い状態だった。歴史家のズビニェク・ゼマン(英語版)は後に「事件は人々に印象を残すことにほとんど失敗した。日曜日と月曜日(6月28日と29日)、ウィーンの大衆はまるで何も起こらなかったように音楽を聴いたりワインを飲んだりした」。一方、帝位継承者の暗殺という事件は政治に重大な影響を与え、21世紀の文献では「9月11日効果」と形容するものもある。また、大公夫婦とは個人的には親密ではなかったが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は衝撃を受けて、うろたえた。
※この「サラエボ事件」の解説は、「第一次世界大戦」の解説の一部です。
「サラエボ事件」を含む「第一次世界大戦」の記事については、「第一次世界大戦」の概要を参照ください。
サラエボ事件と同じ種類の言葉
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