現代における評価
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近代においてもヘロドトスの記述の中に信憑性の低い説話が多数含まれることについての批判は続いている。『ローマ帝国衰亡史』で名高いイギリスの歴史学者エドワード・ギボンは、ヘロドトスが娯楽性の高いエピソードをふんだんに交えていることについて、「ある時は子供のために、ある時は哲学者のために書いている」と評している。また、特に伝聞としてヘロドトスが伝える神話的な伝承の他にも、彼の軍事的分野についての記述にはしばしば厳しい目が向けられる。歴史学者ジョン・バグネル・ベリーは以下のように述べる。 (ヘロドトスの仕事は)おそらく条件つきで、歴史の方法論とよばれるものの近代的な発展の基礎となっている。しかし、これらの常識としての原理を宣言しているにもかかわらず、その作品のある部分は、早熟の子供が書いたものかと思われるほどに、かれはある点では常識に欠けていた。かれは大戦争の歴史を書こうとしながら、戦争の諸状況についての最も基礎的な知識を欠いていた。クセルクセスの軍隊の数についての、ありえない空想的な叙述は、ほとんど信じられないほどにかれの無能を示し、ヘロドトスを歴史家というよりも叙事詩人とするのにじゅうぶんである。(中略)ヘロドトスを戦争史家として最低の標準から評価しても、この点では彼は戦争史家としては、その資格さえもない。 —ジョン・バグネル・ベリー。 しかし、近年では歴史学の手法の発展に伴ってヘロドトスの作品についても多方面から盛んに行われるようになっており、新しいヘロドトス像が築かれてきている。また古代人によるヘロドトスへの批判はそれ自体が事実誤認によるところがあったという指摘もあり、現代ではヘロドトスの復権は著しい。また、ヘロドトスの記述のうち古代ギリシアの地誌に関する研究においては、その信憑性の高さを認める見解も存在する。 この新たなヘロドトスへの評価の背景には20世紀の歴史学の飛躍的な発展がある。文化人類学や社会学の方法が歴史学に取り入れられるようになった結果、歴史学の研究手法に新たな地平が拓かれるようになると、多数の神話や伝承を伝えるヘロドトスの『歴史』はその手がかりとなる材料の宝庫として注目されるようになった。フランスの学者アルトーグは「ヘロドトスが『歴史の父』となったのは前5世紀でもキケロの時代でもなくて、20世紀に歴史学が新たな地平を拓いた時なのだ。」と述べる。 また、ヘロドトスの記述のフィクション性についても、歴史それ自体の考え方の変化によって新しい評価がされている。即ち、過去に発生した史実を完璧な形で再現することはどのような手段によっても不可能であり、従って歴史は真実を表現できず、「歴史そのものが嘘(フィクション)である」という命題も存在する。この命題の下では歴史とは史実を完全に再現する存在ではなく、各種の史料や考察を通じて可能な限り史実に肉薄しようとするものであり、未だ歴史と言う概念の存在しない時代に生きたヘロドトスの「作り話」についても、それは当時可能な限りの情報を集め真実を探求したものの発露であるともとらえられるからである。 総体としてはヘロドトスは、明確な問題意識の設定、能動的な情報収集、情報自体の批判・検証、公平な立場から事物の推移・原因を考える姿勢などを打ち出したことから、彼の著作『歴史』は歴史学の誕生を告げるものであると評価される。歴史学者大戸千之はヘロドトスの評価について以下のようにまとめている。 歴史学は、事実を語るために情報を収集し、それらを批判的に検討する営為である、ということができる。ヘロドトスの仕事は、その鏑矢といってよい。今日的観点からすれば、先立つ語りの伝統の殻を抜けきれておらず、批判的検討にもナイーヴすぎるところがある点は蔽えないけれども、歴史学の第一歩を踏み出した栄誉は、彼にあたえられるべきであると考えたい。
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現代における評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 17:40 UTC 版)
100年前にガヴリロ・プリンツィプが放った銃弾は、ヨーロッパに向けて発砲されたものではなく、自由を得るための発砲であり、外国による支配からの解放を目指すセルビア人の闘いの先駆けとなった。 —スルプスカ共和国大統領ミロラド・ドディク(英語版) 彼(プリンツィプ)の行為がもたらした影響は、ボスニアにとって非常に悪いものだった。 ボスニアはユーゴスラビアとなって消滅し、ボスニアに住むムスリム人の存在は1968年まで認められることはなかった。彼ら(オーストリア=ハンガリー帝国)はユーゴスラビア王国やユーゴスラビア共産主義者同盟に比べれば、はるかに優れた支配者と言えた。 歴史的な記録を見れば、オーストリア=ハンガリーが法による支配のような概念をいかに重視していたかがわかるだろう。我々は1918年に非常に多くのものを失った。 —フェドザト・フォルト(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦系通信社の論説委員)- プリンツィプはオーストリア=ハンガリーという占領者からボスニアを解放する手助けをしたいう主張に対して 暗殺者の1人であったヴァソ・チュブリロヴィッチ(英語版)は後にサラエボ事件を振り返って、「私たちは美しい世界を破壊した。それは大戦の勃発によって永遠に失われた」と語った。 旧ユーゴスラビアの多くの国で、ボシュニャク系およびクロアチア系住民の大部分は、プリンツィプはテロリストであり、またセルビア民族主義者であると見なしている。サラエボ事件の100周年記念行事は欧州連合によって企画され、サラエヴォ市庁舎(英語版)でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるコンサートが行われた。記念行事にはオーストリア大統領のハインツ・フィッシャーが主賓として招かれた。 他方、セルビア民族主義者の要人らはこの記念行事をボイコットし、一切の参加を取りやめた。スルプスカ共和国に属する東サラエボでは、サラエボ事件の100周年を記念してプリンツィプの銅像が建てられた。その後2015年6月には、セルビアの首都ベオグラードにもプリンツィプの銅像が建てられた。セルビアの歴史教科書は、セルビアまたはプリンツィプが第一次世界大戦のきっかけとなったことを否定しており、開戦の責任は中央同盟国にあるとしている。スルプスカ共和国大統領ミロラド・ドディクは、ボスニアは「いまだ分裂状態にある」と認めた上で、プリンツィプは「自由の戦士」であり、オーストリア=ハンガリーは「占領者」であったと主張した。 プリンツィプが使用した銃と、大公フランツ・フェルディナントが乗っていた車、血に染まった大公の軍服、そして大公が死亡したシェーズ・ロングは、オーストリアのウィーン軍事史博物館に常設展示されている。プリンツィプによって発射された弾丸は、「第一次世界大戦を始めた弾丸」とも呼ばれ、チェコのベネショフにあるコノピシュチェ城(英語版)内の博物館に展示されている。事件のすぐ後に暗殺現場に建てられ、サラエボがユーゴスラビアとなった1918年に破壊された記念碑に含まれていた大公夫妻をかたどった銅のメダルは、サラエヴォにあるボスニア・ヘルツェゴビナ国立美術館で現在保存されている。
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現代における評価
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「エミリー・デュ・シャトレ」の記事における「現代における評価」の解説
1970年代までは、科学上の功績よりヴォルテールとの関係に注目されていた。 質量とエネルギーの等価性を表す有名なアルベルト・アインシュタインの公式E=mc²(ここで c {\displaystyle c} は光速を表す)に対して、彼女が150年前に見出した関係式 E ∼ m v 2 {\displaystyle E\sim mv^{2}} を関連付ける議論も見られる。確かに彼女の式は古典力学における運動エネルギーの正しい見積もりだが(係数1/2は除く)、物理学的にはアインシュタインによる質量とエネルギーの等価性の概念とは全く別のものである。
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