現代における科学的な方法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 23:09 UTC 版)
「科学的方法」の記事における「現代における科学的な方法」の解説
「科学的方法」についての言及は、さまざまなものがある。 2009年の『高等学校学習指導要領解説理科編』119頁には、「理科課題研究の目的」として、以下のような解説がなされている。 「科学に関する課題を設定し」とあるのは,自然や科学技術に関して観察,実験などの探究的な活動を通じて習得した探究の方法を用いることにより解決できる課題を設定することを示している。 「観察,実験などを通して研究を行い」とあるのは,仮説の設定,実験の計画,実験による検証,実験データの分析・解釈,推論など探究の方法にしたがって研究を進めることを示している。 「科学的に探究する能力と態度を育てる」とあるのは,探究の方法を用いて研究を行う過程で,設定した課題を科学的に解決する方法を見いだす能力と態度を育成することを示している。 「創造性の基礎を培う」とあるのは,研究の実施や報告書の作成を通して,研究においては独自性が重要であることに気付かせ,創造的な思考力を養うことを示している。そのためには,文献等の調査,研究に必要な器具や装置の製作などについて,適切な助言が必要である。 上記の「探究の方法」、「科学的に探究する能力と態度」等の要件定義から、科学的な方法(「探究」)の特徴に関する規定がある程度読み取れる。 世界各国を見渡すと、一つとしてアメリカ科学振興協会が1989年に提出した報告書、「すべてのアメリカ人の科学」がある。 「すべてのアメリカ人の科学」(SFAA)は、草記、審査、承認に関して、さまざまな領域から、世界的に権威を認められた者が多数関わっている点に特徴がある。F. James Rutherfordは、(その文書の編纂に携わったひとりだが)同文書について、「(いろいろありはしたが)結果としては「多くの地域の科学者たちは、“尊敬されるメンバーが行った表明として”受け入れてくれた」と主張した。だが、この文書には多くの免責事項が書かれている。例えば、F. James Rutherfordは同文書の「日本向けの序文」の中で、以下のような免責事項を述べている。たとえば、同書の名前として『すべてのアメリカ人のための科学』といった、米国限定であるようなタイトルをついていることについて、「この文書の作成には、基本的に他国の科学者が参加しておらず、他国の優秀な科学者の見解が反映されていないことから、これを勝手に「すべての人のための科学」としてしまっては、他国の科学者たちがそれぞれの見解を表明するという権限を侵してしまう可能性があり、そうはしなかった」と述べている。またラザフォードは、この『すべてのアメリカ人のための科学』も、(そして、他のいかなる刊行物も)1冊では科学的リテラシーを保証するものとはならないと述べてこの冊子で提示できることがらの限度に対し一定の理解を示している。 同文書などでは、「科学的な方法の特徴は、論証過程と調査プロセスに顕著に認められる」とした記述がみられる。論証過程においては、以下のような記述がある。 基本的なことを言えば、様々な科学的学問は次のような点では似通っている。すなわち、証拠に依拠していること、仮説と理論を使用しているということ、また用いられる論理の種類、である。とは言うものの、科学全てが同一の特徴を有しているというわけではなく、異なる点も多々ある。たとえば科学者ごとに、研究する現象、活動に取り組む姿勢、歴史的データを用いるか実験的発見を用いるのか、手法が定性的なのか定量的なのか、基本原理への依拠の程度、他の科学の所見をどの程度重視するか、などの点では大きく異なっている。 上記の記述において、「証拠に依拠していること、仮説と理論を使用しているということ、また用いられる論理の種類に共通性があること」が、科学的学問の間で、特に類似性の高い部分としている。 また、一般に、論理の妥当性に関しては以下の点が必要である。 「適切な証拠への依存」 「明確な結論の存在」 「証拠と結論を結ぶ適切な推論過程の存在」 これらについて、以下のような記述が本文に記載されている(下線は本記事の執筆者みよる)。 科学は証拠を要求する遅かれ早かれ,科学的主張の妥当性は現象を観察することで解決される。したがって,科学者は正確なデータを収集することに努力する。 仮説や理論の形成にはあらゆる種類の想像力や思考力が利用されるが,遅かれ早かれ,どのような科学的主張であっても論理的推論の原則に合致しなければならない。すなわち、推論,実証,常識に関する一定規準を適用することで,主張の有効性は試されなければならないのである。科学者は,しばしば特定の証拠の価値や特定の想定の妥当性について見解が異なるため,正当化すべき結論に関する見解が異なることがある。しかし,証拠と想定を結論に結びつけるための論理的推論の原則については,科学者の見解は一致する傾向にある。 これに加え、以下のようなことも述べている。 論理と証拠に関する詳細な調査は必要なものではあるが,これだけでは科学の発展にとって十分ではない。科学的概念は,データや実施された多くの分析から自動的に発生するわけではない。 調査プロセスにおいても、いくつかの免責事項がつくが、以下のような記述がある。 科学者が常に従っているような決まった一連の手順などというものは無い。また、“誤ることなく科学的知識に導いてくれる単一の道筋”などというものも無い。それでも科学には、探究モデルとして他とは異なった性質をもたらしているような、何らかの特徴がある。 現代の科学的な方法においては、一つの現象を説明する場合に、"「なぜそうなるのか」という哲学的な問題は棚上し、「その現象がどのようにふるまうのか」に着眼する傾向がある"とファインマンは指摘した。この意味で、科学的な方法においては結論の提示は現実の物理現象、社会現象などを定性的/定量的に説明する具体的なモデルを提示する形で行われる傾向がある。 また、多くの科学的理論の成否は実験によって判定されるが、理論の成否は「シロ」か「クロ」というような幼稚な二元論で判定されるのではなく、信頼性や有意性、当てはまりのよさといった統計的な尺度で良し悪しを判定され、その値は良し悪しはスペクトラム状(無段階、連続的)に広がっている。従って、現代の科学的手法で得られた結果や結論に対しては、当てはまりの良さや有意性を表す数字がつけられることが多い。また、同じ事柄に関して複数の等価でない理論が並立することもあり、それぞれの理論は別々の結果を算出することもよくある。そして別々の結果であっても、あてはまりのよさが同程度であったとした場合には「同程度に正しい」ことになる。 結論の成否は証拠となる事実の取得方法、処理方法、推論過程の適切さの判断となる。しかしながらこの問題は評価の問題を含む。また分野間、研究者間によってデータの処理方法や実験的所見、定性的又は定量的手法等が異なる。「適切さ」の問題について、科学哲学者の戸田山和久は、は、以下のように述べている。 "科学が扱っているのはすべて理論であって、その中により良い理論と、あまり良くない理論がある。科学の目的は、理論をほんの少しでもより良いものにしていくことだ"(P23) 即ち、不適切(黒)と適切(白)の間はスパッと二分できるものではなく、スペクトラム状に広がっているものだという考え方である。戸田山によると、「“より”良い仮説や理論の基準」とは、以下のようなものとしている(P39)。 より多くの新奇な予言を出してそれを当てることができる。 アドホック(その場しのぎ)の仮定や正体不明・原因不明の要素をなるべく含まない。 すでに分かっているより多くのことがらを、できるだけたくさん/できるだけ同じ仕方で説明してくれる。 また、戸田山は、科学的良い理論には次の特徴があると述べている(P148)。 実り豊かである。未知の現象がたくさん予言され、当たってきたなど。 守備範囲が広い。予言されたり説明されたりする現象が広範囲に及ぶ。 一定の実績のある別の理論を内包していること。(ex:量子力学は、エーレンフェストの定理等により古典力学を含む) シンプルであること。 さらに、科学的によくない理論としては、「反証可能性」という観点から以下のような特徴があるともしている(P140)。 仮説を曖昧な言葉で述べる。あるいはほとんど反証例のありえない、いつでも成り立つような仕方で与えることで、反証条件をはっきり与えない。 仮説の反証条件ははっきり与えられていても、反証条件を満たす反証例が現れたときにアドホックな仮説を付けたしたりして仮説をいつまでも守るようなことを行う。 但し、戸田山は以下のようにも述べている、 反証例から仮説を守るため、補助仮説が置かれるときに、ちゃんとした科学では補助仮説の置き方が合理的で、疑似科学はそうでないという特徴がある((P148 より引用))。 さらに、戸田山は、「アドホックな仮説を継ぎ足すこと」については、特に実りの多い理論に対して少数の反証例から一つの理論を全否定することは通常はないと指摘していて、アドホックな仮説を継ぎ足すことが結果としてよかった例も多数あることにも具体例を挙げて言及している(アドホックな仮説を継ぎ足すことが失敗に終わった事例にも言及している)。
※この「現代における科学的な方法」の解説は、「科学的方法」の解説の一部です。
「現代における科学的な方法」を含む「科学的方法」の記事については、「科学的方法」の概要を参照ください。
- 現代における科学的な方法のページへのリンク