推論過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 04:44 UTC 版)
「IMRAD」も参照 結論と、実験事実の間には何らかのギャップがあることが通常であり、その間を結ぶ考察が必要となる。すなわち、証拠と結論を結ぶ適切な推論過程が考察である。 推論過程を、一つの観点から分類すると、直接証明法と間接証明法に分類できる。 直接証明法:証明したい命題を直接的に立証する 間接証明法:証明したい命題と等価な命題(例えば対偶や背理法)を示す。 推論過程を、別の観点から分類すると、「演繹」と「演繹でない推論」に分類される(PP88-92)。 演繹とは、一般的原理として認知された法則、あるいはもっともらしいと信じられているものに基づいて、いくつかの仮定をおき、具体的なモデルを考え、それに基づいて現象を予測する手法である。 演繹でない推論(非演繹的な推論には、帰納、投射、類比、アブダクションがある。 帰納は、個別の例から一般性を導くもの。 投射はこれまでの個別例ではAの性質だったから、次のケースもAだろうという推論。 類比は、二つの事柄が似ていることから、それ以外の点でも似ているだろうという推論。 アブダクションは、たとえば今まで分かっていたことだけからではすぐに説明ができない場合に、説明を可能にするような新しい仮説を置いて、その仮説は正しいだろうと考えるような推論のこと。 ここで、アブダクションについては、あまり聞きなれない言葉であるため簡単に補足しておく。これの基本は「チャールズ・パースの仮説形成法」が基本になるとされている。パースの仮設形成法というのは、大まかに以下のような過程で“推論”する。 驚くべき現象Fが観察されている。 だが、仮説Hが真であると仮定すると、Fは当然のことになるだろう。 よって、Hは真であると考える理由がある。 いわゆる「現象論的」と言われる考察においては、このような考え方が特に好んで用いられる。また、現在において認められている理論のほとんどすべては、「多数のFを説明できるからHは正しい」といった論拠に基づいており、逆に言えば、どれだけの(多さの)Fを説明できるかがその理論の優劣を決める。このようなモデルに基づいた仮説形成法は、「必要条件と十分条件の混同」という点においてデカルトの枠組みを若干逸脱しているが、特に「情報量が増える」こともあり、科学的な論証の推論過程においてよく用いられる。 演繹においては、「正しい前提に基づけば必ず正しい結論が得られる」という意味で真理が保存される一方、情報量は増えない。一方、非演繹的論法は、「蓋然的」、すなわち、「必然的ではない、結論が必ず正しいとは限らない」という特徴があり、一方で「情報量が増える」ということがある。科学者は、両者の良しあしを使い分け、試行錯誤の過程において、例えば「少数の現象から、それらを統一的に説明する仮説を帰納し、その仮説からより多くの現象を予測する」といったように、これらの論法を組み合わせる。 考察を行うに当たっては、必要に応じて、何らかの理論や既に公表された他の実験データなどを援用し、証拠を補完する必要がある場合もある。しかし、ある程度信頼を得ている理論ですら完全な証拠の補完ができず、いくつかの推定が根拠の中に混ざる場合や、推論過程自体に粗が存在する場合もある。一般に、「どのような推論過程」が適切であるのかは、その研究のオリジナリティーにかかわる部分であり、特に研究レベルでは極めて難しい。 実際、物理の重要な概念を創造した論文は、たいていは隙がある論理展開をしていると指摘される。通常の学部レベルで想像される緻密な理論展開は、創造的理論を受けてその内容を精密化したり整理する過程で生じる。 このように科学においては論理性を重視する一方で、現実の対象を扱っていることによる若干の論理の飛躍を認めざるを得ない側面がある。一般に、現実の対象を扱う学問では多少飛躍を許してでも学問を進めたほうが、後になってみて分かることが多いと信じられている。反面、この意味では「科学的な方法によって得られた結論」であるというだけでは「科学的に正しいか否か」「現実的に正しいか否か」「現実的に役立つか否か」は必ずしも一致するとは限らない。問題は、「ギャップを認めつつも推論を進め、意味のある仮説を提唱し、それを広め、集団で検証する」という建設的な立場の重要性にある。 論理の飛躍としては、 法則の適用範囲を勝手に広げる 数学上の制約を無視 実態とは合わない近似 必要条件と十分条件の意図的な混同(チャールズ・パースの仮説形成法) 強引なモデル化 強引な仮定を認める などがある。それぞれそういうものを認めざるを得ない相応の理由がある。 では、どこまでの飛躍やあいまいさを容認するのか。これは非常に難しい問題であり「真実への到達」を考えるならば安易に結論できない問題である。だが標語的に「仮説は失敗を恐れずに大胆に立てろ」といわれるように、一般に建設的な立場においては「真実に到達する」ためには「いろいろな“とるに足る”論」があったほうがよいと考えられている。 最終的には「どれだけ沢山の自然現象を説明できるか」が科学理論の良し悪しを決めるため、裁判における証拠の鑑定や、法律制定の基礎調査等のような「真実性」の重要性が圧倒的に高いケースを除き、この問題は、過度に深刻に考える必要性は乏しい。どこまでの論理の飛躍を認めるかについては「研究者のタイプ論」から説明されることもある。研究者のタイプはしばし(呼び方は別として)「先頭突撃型」と「地固め型」に分類され、前者の場合は文字どおり、多少乱雑かもしれない実験や推論をする反面、重要な発見をする。逆に地固め型は過去の研究の“粗”の部分を補正する。 この論理の飛躍に関しては、「論文として世に出す価値を認めるか否か」に話を限局すれば節度の問題となっていて、ピア・レビューの過程で、前例やその報告の面白さなどを踏まえながら決まっていくものである。ピア・レビューで出来ることは、せいぜいその程度のことであり過度な期待はいけない。この時点におけるレフェリーとの応酬に勝つためには当然、過去の論文を多く読みその論法を見ておく必要がある。また粗がある議論があって、それを部分的にでも修正することができるのならば(それを論理的に立証できる限り)それは論文を書くチャンスである。
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