推論の時代(1827年-1969年)
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「不滅の恋人」の記事における「推論の時代(1827年-1969年)」の解説
シンドラーはベートーヴェンの伝記(1840年)の中で、ユリー(ジュリエッタ)を「不滅の恋人」と名付けた。しかしテレンバッハの研究(1983年)によると、ベートーヴェンが1799年から1809年/1810年頃にかけてむなしい恋に落ちていたヨゼフィーネから疑いの目を逸らすため、彼女の従兄弟であるフランツ・ブルンスヴィックがシンドラーに提案したことである可能性があるという。ラ・マーラが出版したテレーゼ・ブルンスヴィックの回顧録(1909年)には、ベートーヴェンへの心からの賛美と崇拝が示されている。このことと幾人かのブルンスヴィックの子孫への聞き取りから、彼女はテレーゼが「不滅の恋人」であったに違いないという結論に達している。 アレグザンダー・ウィーロック・セイヤーなどの大半の研究者は、当初はテレーゼが「不滅の恋人」であると考えていた。セイヤーは手紙の執筆時期は1806年から1807年頃に違いないと考えていた。ヴォルフガング・アレクサンダー・トーマス=サン=ガリ(1909年、1910年)はボヘミアの公的な客人一覧を調べ、はじめはアマーリエ・ゼーバルトが「不滅の恋人」であろうと結論づけた(1909年)。ゼーバルトが1812年7月の初頭にプラハに居なかったことは確実であり、このためバリー・クーパーは彼女を候補から除外している。トーマス=サン=ガリはその後(1910年)、テレーゼ・ブルンスヴィックがお忍びでプラハへ来ていた可能性があると考え、彼女がそうなのではないかと推測するようになった。これに異議を唱える者も現れた。アンドレ・ド・ヘヴェシー(1910年)はテレーゼ・ブルンスヴィックを除外し、マックス・ウンガー(1910年)はアマーリエ・ゼーバルト説を否定した。古い文献はエリオット・フォーブズによってまとめられている。パウル・ベッカーにより「Die Musik」上で偽造されたベートーヴェン書簡もあった。しかし、でっち上げであったことが既にニューマンによって示されている(1911年)。信憑性を失ったグイチャルディ仮説を救おうとする窮余の努力であった。 その間に「不滅の恋人」書簡の執筆時期に関しては、1812年7月6日-7日が確かな日付であると裏付けられていった。根拠は透かしや文献のみならず、ベートーヴェンがラーヘル・ファルンハーゲン・フォン・エンゼに宛てた手紙にも求められ、そこからは彼が1812年7月3日に「不滅の恋人」と会っていたに違いないことがわかる。「申し訳ない、親愛なるV.、プラハ最後の晩を貴女と過ごすことができませんでした。私自身失礼なことだと思いましたが、予期しない事態によりそうせざるを得なかったのです。」 ブルンスヴィック家の屋敷から新たに手紙やメモ書きを発見したラ・マーラは次のように確信した(1920年)。「デイム伯爵未亡人ヨゼフィーネがベートーヴェンの『不滅の恋人』である。」マリアンヌ・チェケは初めてテレーゼの1813年の日記帳の結びの言葉を公表し(1938年)、ベートーヴェンが愛していたのはヨゼフィーネであったが、それでも「不滅の恋人」であるテレーゼに傾いていったと結論した。結びの言葉の一部は既にローランドが知るところであった(1928年)。ジークムント・カズネルソンはブルンスヴィックの屋敷からさらに多くの資料を検討し、ファルンハーゲンが「遠くの恋人」の背後にいると考えつつも「不滅の恋人」はヨゼフィーネであったとした(1954年)。その根拠は、主に彼女の娘のミノーナが夫のシュタッケルベルク男爵が居ない状況で、ベートーヴェンとの出会いからちょうど9か月目に生まれていることである。カズネルソンは、第二次世界大戦後「13通の手紙」を所有していたチューリッヒの蒐集家ハンス・コンラート・ボドマーが彼に手紙の閲覧を許さなかったにもかかわらず、この結論に到達している。 心理分析を駆使したエディスとリチャード・スターバは、ベートーヴェンの甥であるカールが「不滅の恋人」であろうと議論している(1954年)。ダーナ・シュタイヒェンはマリー・フォン・エルデーディがベートーヴェンが生涯愛した人物であったとし、従って「不滅の恋人」であると考えた(1959年)。ジョージ・リチャード・マレックは「不滅の恋人」がドロテア・エルトマン夫人であった場合について考察を行った(1969年)。
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