現代における解釈と批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 08:15 UTC 版)
「チャーリー・チャン」の記事における「現代における解釈と批判」の解説
チャーリー・チャンというキャラクターは論争の的となってきた。肯定的なロールモデルだという見方もあれば、侮蔑的なステレオタイプだという主張もある。批評家ジョン・ソイスターはそのどちらもチャンに当てはまると主張した。原作者ビガーズは邪悪な「チャイナマン」のステレオタイプに代わるユニークな存在としてチャンを送り出したが、同時に彼が「十分すぎるほど人が良く … 物腰は脅威を感じさせず … アジアの故国から遠く離れている」のは、「社会の根底にあるゼノフォビアを刺激しないため」であった。 批評家マイケル・ブロッドヘッドは次のように主張した。「ビガーズはチャーリー・チャンの小説で中国人を共感的に扱い、はっきり意図して彼らを弁護しているのだと読者に納得させた。中国人は単に受け入れるべき人々なのではなく、感嘆すべき人々なのだとされた。今世紀(20世紀)の最初の3分の1で中国系アメリカ人の受容が進んだのは、ビガーズの共感的な中国人描写に応じたものである」。S・T・カーニックは『ナショナル・レビュー(英語版)』誌で「英語が流暢とはいかないものの優れた探偵で、観察力、論理力、誠実で謙虚な人格を備えたチャンは、どこを取っても尊敬できるお手本のような人物だ」と書いている。エラリー・クイーンは、チャーリー・チャンというキャラクターをビガーズによる「人類への、そして人種間関係への貢献」と呼んだ。デイヴ・ケーアはニューヨーク・タイムズ紙でチャンが「ステレオタイプであるとしても、正義の側のステレオタイプだった」と述べた。数々の映画でチャンの息子を演じた俳優ケイ・ルークはこれに同意している。チャンが中国人の品位を落としていると思うか尋ねられたルークは「品位を落とす? とんでもない! 中国人の英雄だよ!」「[我々が]作っていたのはハリウッドで一番すごい殺人推理映画だったんだ」と答えている。 イェン・リ・エスピリトゥやホアン・グイヨウのような批評家は、チャンが様々な面で好意的に描写されている一方で、白人キャラクターと同等ではなく「奥行きのない」「善意の他者」に過ぎないと主張している。チャン映画で白人の俳優が東アジア人を演じていることは、それらのキャラクターの「絶対的な東洋的他者性[訳語疑問点]」を示している。チャンや類似のキャラクターが登場する映画は「白人の俳優が中国訛りを真似たり、謎めいた中国のことわざを連発する」限りにおいてヒットした。チャンというキャラクターは「中国系アメリカ人、その中でも男性に与えられた賢明、従順、柔弱というステレオタイプを体現している」。チャンはモデルマイノリティ(英語版)、すなわち悪いステレオタイプと対置される良いステレオタイプを代表している。「ステレオタイプ的なイメージは矛盾で満ちている。血に飢えたインド人のイメージは高貴な野蛮人のイメージで和らげられ、メキシコ人はバンディード(山賊)であると同時に忠実な相棒でもある。そしてフー・マンチューはチャーリー・チャンによって帳消しになる」しかし、フー・マンチューの邪悪さは中国人固有の性質とされるのに対し、チャーリー・チャンの善良さは一つの例外である。「フーは自分の人種を代表している。その対極であるチャンは、アジア系ハワイ人の中でも際立った存在である」 チャンの人気は日本人に対する黄禍論的な感情によって逆説的に支えられているという主張もある。中国と中国系アメリカ人に対するアメリカの意見は1920年代から30年代にかけて肯定に傾き、対照的に日本人はどんどん疑いの目で見られるようになった。シェンメイ・マはチャンが「他人種に対するパラノイアの横行」に対する心理的な過補償だと主張している。 2003年6月、フォックスムービーチャンネル(英語版)はチャン映画のリマスターをケーブル放送する「チャーリー・チャン・フェスティバル」を計画したが、直後にアジア系団体からの抗議を受けて中止した。フォックスはその2か月後に決定を覆し、2003年9月13日から対象の映画を放映し始めた。その代わり同局は映画とともに、アメリカのエンターテインメント業界で活動するジョージ・タケイなどの著名な東アジア人による座談会を流した。列席者はほとんどがチャン映画に批判的だった。フォックスは現存する自社のチャン映画を全作DVDで発売しており、シドニー・トーラーとローランド・ウィンターズが演じたモノグラム作品はすべて現在の権利者であるワーナー・ブラザースによってDVD化されている。 フランク・チン(英語版)の Aiiieeeee! An Anthology of Asian-American Writers やジェシカ・ハージュドーン(英語版)の Charlie Chan is Dead のような文芸作品のアンソロジーは「文化的な怒りや除外を原動力とした」もので、チャーリー・チャン的なステレオタイプを乗り越える試みがなされている。 アジア系アメリカ人を中心とする現代の批評家はチャーリー・チャンに対して複雑な感情を持ち続けている。チャーリー・チャンの擁護者であるフレッチャー・チャンは、チャンはビガーズの小説で白人キャラクターの下風に立っていないと主張し、『シナの鸚鵡』を例に挙げている。同作で人種差別的な発言を聞いたチャンは目に怒りを燃やし、結末で犯人を暴いた後に「ことによると、チャイナマンに耳を傾けても不面目にはならないかもしれませんね」と言い放つ。映画でも Charlie Chan in London(1934年)と Charlie Chan in Paris(1935年)にはいずれも「チャンが冷静にウィットを利かせて人種差別的な発言を受け流すシーンがある」。ホアン・ユンテはチャンが「この国の文化が併せ持つ、人種差別の伝統と創造の才の縮図」だと述べ、アンビバレントな評価を下している。ホアンはまた、チャーリー・チャンの批判者自身がチャンを「戯画的に誇張する」ことがあると示唆している。 チャンというキャラクターは「フォーチュン・クッキー風に表現された孔子の知恵」や、ポップカルチャーで広く普及することになった「でたらめな格言」でも批判を受けている。チャンが「孔子曰く…」と話し始める格言は映画で導入されたもので、ビガーズの原作小説では使われていない。ただし、小説の1冊でチャンは「私を知っている人がみな苦々しくも学んだように、中国にはどんな状況に対しても適切な格言があります」と発言する。ホアン・ユンテは格言の例として「舌はしばしば縄より速く人を吊るす」「精神は落下傘と同じく開かなければ役に立たない」「ダイナマイトで戯れる者はいずれ天使と並んで飛ぶことになる」を挙げている。しかしホアンは、これらの「精彩に富んだ金言」は「驚くべき言語学的アクロバットの技量」を示していると主張する。またチャンはアフリカ系アメリカ人の民話に登場する「シグニファイング・モンキー(英語版)」と同様に「知恵と同時に嘲りを伝える」という。
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