現代における評価・意義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 17:10 UTC 版)
「ジャアファル・サーディク」の記事における「現代における評価・意義」の解説
イランやイラクで主要な位置を占める十二イマーム派シーア派主義は、別名ジャアファリー派ともいわれる。いうまでもなく、ジャファル・サーデクの名前から由来している。どれほどこの人物がこのイスラームの一派で枢要な位置を占めるかは、これによっても知ることができる。 1979年に成就したイラン・イスラーム革命のイデオローグの一人、モルタザー・モタッハリーは、サーデクの意義を正当に評価するためには、まず、彼の時代状況を踏まえる必要があるという。サーデクの時代を三代目イマーム・ホセインの時代と比較すれば、なぜ前者が政治的に穏健な立場に終始したのか明瞭になるのである。 サーデクの時代もホセインの時代とともに、政治的にいえばシーア派にとって受難の時であった。ホセインは恐れもなく果敢に、時の圧政的ウマイア朝に挑み、壮絶な死を遂げた。一方のサーデクは、周囲の支持者たちの懇願にも関わらず、叛旗を翻すことなく蟄居して、弟子たちの教育に従事することを選択した。記述の通り、当時のシーア派はハサン派とホセイン派に分かれており、サーデクはホセイン系の指導者であった。アッバース朝の圧制に対して、ハサン系の領袖、アブドッラーは、アブー・サルマと共謀し、政治的陰謀を展開していたが、アッバース朝の初代カリフは最終的に両者とも殺害した。問題は、このような状況の中で叛旗を翻すのが得策か、あるいは沈黙を守るのが賢明かいずれかである。 この問題について、モタッハリーは、サーデクが自らの殉教がイスラームとムスリムたちのためにより良い結果をもたらすのであれば、ホセインのように、殉教を選ばれたであろう。その時代において、より利益があったのは、知識、思想、教育に関する一つの指導であって、その影響は今日に至るまで及んでいると述べる。このイスラーム暦第二世紀頃は、ホセインが殉死した時代とは知的環境が大いに異なっていた。ギリシアの合理主義的思弁法を用いたムウタズィラ派神学が徐々に勢力を獲得してくるのに歩調を合わせて、法学、倫理学、哲学、神智学、解釈学、伝承学などが整備されてきた。現在シーア派世界で行われている基本的な形式は、サーデクの時代の方法の結果として生まれたものである。このように、サーデクの政治的沈黙は、シーア派共同体全体の福利のためであって、彼によって今日のシーア派の基盤がすえられた、というのである。 すなわち、サーデクの時代は思想的革命の時代であって、政治的革命運動の条件が整っていなかった。言い換えれば、新しい帝国に編入された様々な地域から流入する思想、文化的要素がイスラームの存亡を脅かしていたのである。これはイスラーム誕生以来、かつてない現象であった。専門的な法学者が始めてイスラームの舞台に現れ、さらに神学者、異端者、さらに神秘主義などが現れた。この百家争鳴的状況のなかで、サーデクの指名はこれら思的潮流に押し流されることなく、以前と対峙しながら自らの拠って立つ宗派の立場を確固たるものとすることにした。シーア派の支持者からみて、この状況に対応できる人物は、ジャアファル・サーデク以外にいなかったということである。 彼の学識が衆に優れることは彼の周囲に参集した弟子の多さでも知れるが、スンナ派の学者や反シーア派的立場の者すら、サーデクの見識を賞賛していた事実がある。例えば、マーレク・アナスは、二年間イマームのもとで研鑽していたが、「あの二年間がなければ、今の自分はなかった」と語った。さらにシーア派に敵対心を燃やしたことで知られるムハンマド・シャフレスターニーすら、サーデクのみは「煮え立つような知識を持っていた」「並々ならず禁欲的で、敬虔さを保持した人物であり、欲望というものからかけ離れた人物であった」と例外的に扱っている。
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