20世紀の歴史
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村人の少なくともひとりが第一次世界大戦のときオーストラリア艦隊に乗り組み、ダーダネルス戦役で戦ったという記録がある。その兵士はフレデリク・ジョージ・カイト兵卒、1894年2月16日にワームズヒルで生まれミルステッドの学校を卒業後、1915年9月8日に入隊した。はじめ消防隊員として働くとビクトリア州ブラックボーイとブロードメドーズの基地で軍事教練を受けて大英帝国オーストラリア軍第16歩兵大隊に配属される。1914年12月23日、軍隊輸送船セラミック A40 に乗船してメルボルンを出港。ガリポリ上陸作戦に加わると左腕と肩に傷を負って除隊した。 ワームズヒルは第二次世界大戦中に地域の村々と同様、空襲情報伝達網に加わった。村のはずれ、リングルストンの集落近くに残る「ゼロ局」(別名「作戦基地」) の跡は、かつてホーム・ガードが詰めた秘密の地下電信中継所であった。ドイツ軍が侵攻してきた場合、ゼロ局は防衛軍の暗号電信を同じ規模の他局と交信し、ウィルトシャーのハニントン・ホールの本部と連絡を取る手はずであり、コンクリート製の地下の塹壕は地表から場所を探れないように道路端から140メートルほど離れた林の中に設置された。当初の目的は電信の中継であったものの、武器弾薬や爆弾の貯蔵庫として、また電信士が寝泊りする場所として使えるよう設計されている。 ほかの事例としては村はずれに対空砲を設置、ワームズヒルとフリンステッドを隔てる谷にブレン軽機関銃の銃座が築かれ、村の南西には暗号名ダイバー作戦(英語版)特殊部隊 (V1飛行爆弾迎撃部隊) が潜伏したと伝わっている。ケント防衛線 (Kentish Gun Belt) には V-1ミサイル、通称「蟻地獄」攻撃に備えて40対空旅団138連隊424中隊が駐屯し QF 3.7インチ高射砲8門を配備、1944年7月に57旅団を送りレーダー (Predictor AA No.10 および no.3 Mark V radar) を設置した。村の西で V-1 を撃墜した記録がある。飛行小隊A・R・クリュックシャンク中尉 (Flt Lt) が「スーパーマリン スピットファイア機上よりアシュフォード北方で後方にダイバー (V-1の暗号名) を発見、射程90メートルから迎撃、墜落・破裂を目視にて確認。」という報告であった。 戦時中、村にいた住民らは V-1 が村の北のノーウッド農場 (Norwood Farm) 近くの野原に落ちたこと、ユーツリー農場 (Yew Tree Farm) の南に墜落した戦闘機、村を通る道の南北の端に検問を置いたことに加え、近辺を移動する連合軍もニュージーランドからの分遣隊も一晩、村のホーム農場 (Home Farm) のすぐそばで野営したことを忘れていない。 ワームズヒル村では20世紀に入って人口減少が始まった後、第一次世界大戦とつぎの大戦のあいだに住宅の新築が相次ぎ、1950年代・1960年代にも建築ブームが訪れて点在する19世紀以前の古い家に加えて村の戸数は増えてきた。
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20世紀の歴史
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時期が下ると、目隠しチェスの記録も伸びていった。1900年には、ハリー・ピルズベリーがフィラデルフィアで20人を同時に相手にして目隠しチェスを行った。その少し後にはピルズベリーによって目隠しチェス15試合と目隠しチェッカー15試合を同時に行うという珍しい記録が達成された(目隠しチェッカーの同時記録は、28試合である)。次に記録を大きく伸ばしたのはチェコスロバキアのリカルド・レティとロシアの世界チャンピオンアレクサンドル・アレヒンであった。 1924年、アレヒンはニューヨークのアラマクホテルで、アイザック・カシュダンやハーマン・ステイナーを含む強者26人と同時に目隠しチェスを行い、16勝5敗5引分けであった。これは、恐らくこれまで開催された目隠しチェスのエキシビジョンの中で最強のものであった。翌年2月には、パリで1チーム4人の28チームを相手に行い、22勝3敗3引分けという結果であった。同年、レティはサンパウロで29人を相手にしてこの記録を更新した。 1934年7月16日、アレヒンはシカゴで32人を相手に同時に目隠しチェスをするという世界記録を樹立し、結果は19勝4敗9引分けであった。エドワード・ラスカーは、このイベントの審判を務めた。 20世紀の残りの期間において一般的に知られていた世界記録は、1937年9月20日にエディンバラでジョージ・コルタノウスキーが13時間で34試合を同時に行い、24勝10敗という記録であった。この記録はギネス世界記録にも掲載されていた。後に、ミゲル・ナイドルフとヤーノシュ・フレシュが記録更新を主張したが、コルタノウスキーの記録のような適切な監視を欠いていた。ナイドルフの最初の記録は、アルゼンチンのロサリオで、40人を相手にし、36勝3敗1引分けであった。彼は出身のポーランドから1939年のチェス・オリンピアードに参加するためアルゼンチンに渡り、ドイツ軍のポーランド侵攻を受けて同国に留まっていたため、祖国の家族に彼の生存を伝えるのに十分な注目を集めるためにこのイベントを行なった。1947年にはサンパウロでこの記録を45人に伸ばし、結果は39勝2敗4引分けであった。しかし、ナイドルフは棋譜を見ることができ、またボード当たり数名の対戦相手がいた(つまり一度に相手にした人数は少ない)と言われていたため、ギネスはこの記録を認めていない。コルタノウスキーは、このような条件なら100試合できると主張している。ただしナイドルフの記録を正当なものとしている情報源もある。ハンガリーのヤーノシュ・フレシュは1960年にブダペストで52人と対戦し、31勝18敗3引分けの成績を残してこの記録を破ったと主張した。しかし、フレシュは試合中に口頭で棋譜を確認することを許されており、さらに挑戦は約5時間という極めて短い時間で終わり、多くの短手数局が含まれていたと言われている。 1960年には、コルタノウスキーはサンフランシスコで1手10秒の目隠しチェスを56人の相手と連続で行った。9時間に渡って行われ、結果は50勝6敗であった。彼の得意技は目隠しナイトツアーである。
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