ガリポリ
ガリポリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 14:36 UTC 版)
十字軍は東ローマ皇帝ヨハネス5世パレオロゴスの助力になることを望んだものの、ローマ教皇の方は十字軍にヨハネス5世の信仰をギリシャ正教会からカトリックに改宗させることを望んでいた。教皇はそうすることで、皇帝を自身の宗主下に置こうとしたのである。それでもやはり十字軍は、東ローマ帝国をオスマン帝国の圧迫から解放させることに努めた。十字軍はまた、ラヨシュ1世からの支援を期待していたものの、"ブルガリア地区" (in partibus Burgarie) でアメデーオ6世に仕える2人の従卒がラヨシュ1世からの支援の全てであった。 1366年の春にヨハネス5世は、ラヨシュ1世から軍事的支援を得るためにハンガリーの宮廷に赴いて、自身と息子が代表してカトリック教会へ改宗することを誓った。6月1日にウルバヌス6世はラヨシュ1世に十字軍の勅書 (en) を授けたが、7月22日の手紙では1年1ヶ月前に授けた特権を取り消した。ヨハネス5世はブルガリア経由で帰国の途についたが、同地でかつての同盟者たちに襲撃された。 罠にはめられたことを悟ったヨハネス5世は、ブルガリア軍によって投獄あるいは包囲されてしまい、東ローマに帰国することが出来なくなった。その東ローマでは、ブルガリア皇女キラツァ・マリアと結婚したアンドロニコス4世パレオロゴスが統治権を握っていた。ヨハネス5世の母アンナ (it) はアメデーオ6世の父アイモーネの姉妹であったことから、アメデーオ6世とヨハネス5世とは従兄弟の関係であった。 ブルガリア情勢とヨーロッパにおけるオスマン帝国の立場を知らされると、アメデーオ6世は艦隊をダーダネルス海峡に導き、そこでヨハネス5世の義理の息子であるレスポス侯フランチェスコ1世ガッティルシオ (en) 率いる小艦隊と合流した。またサヴォイアの年代記の伝えるところによれば、十字軍にはコンスタンティノープル総主教率いる東ローマ帝国軍 (en) の分遣隊も加わった。これらの混合十字軍は8月22日に、オスマン帝国のヨーロッパにおける2番目の都市であるガリポリへの攻撃を開始した。十字軍は城壁を攻撃しつつ街を包囲したが、オスマン軍は夜間にガリポリを放棄し、同市の住民は翌朝、十字軍のために街の扉を開いた。この短い挿話に関する情報源は、限られた光しか放っていない。アメデーオ6世の記録によると以下のことが知られている。街と要塞の両方が8月26日までにサヴォイア十字軍が掌握するところとなり、それぞれの守備隊と指揮官が任命され、ジャコモ・ディ・ルセルナが街を、アイモーネ・ミハエレが要塞を担当することとなり、両人は単にガリポリを守備するに留まらず、海峡の出入りも警備もすることとなった。8月27日にアメデーオ6世による"異教徒トルコ人に対する最初で最も有名な勝利"の報せを伝えるための使者が、西欧世界に送られた。 年代記はオスマン軍が退いたことによる迅速な成功を説明してはいるが、同時に9月12日にコンスタンティノープルのベヨグル(トルコ語版) (Pera) にて、ガリポリ攻撃で戦死した自身の従卒のために葬儀の準備をしたことも知られている。シモン・ド・サンラムール、ローラン・ド・ヴェシーのコラル島の両騎士は殺害されており、アメデーオ6世の会計係であるアントワーヌ・バルビエは葬儀のために18の"コラル島の意匠" (devisa collarium) を帯びたエスカッシャンを購入し、また81の蝋燭の松明と施し物が、サヴォイア出身のギラルド・マレシャル及びヴォードワ (en) 出身のジャン・ディヴェルドンのために支払われた。 当初、マルマラ海に吹いた大嵐が十字軍の残存部隊がガリポリを出立するのを妨げたが、9月4日までに海を渡ってコンスタンティノープルに辿り着いた。艦隊はベヨグルに着き、大多数の者は同市のジェノヴァ人地区に滞在したが、何人かの者はガラタの borgo de Veneciis (ヴェネツィア人地区)で宿泊した。アメデーオ6世自身は家を購入したが、家具は自身で備え付けなければならなかった。家具と葬儀の費用に加えて、アメデーオ6世は自身の通訳を務めたパウロに3ヶ月分の給料を支払わなければならなかった。
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