キラツァ・マリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/29 00:56 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動| マリア・キラツァ/キラツァ・マリア Μαρία Κυράτζα / Кераца-Мария  | 
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| 東ローマ皇后 | |
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| 在位 | 1376年 - 1379年 | 
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| 出生 |  1348年 | 
    
| 死去 |  1390年 | 
    
| 配偶者 | 東ローマ皇帝アンドロニコス4世パレオロゴス | 
| 子女 | ヨハネス7世パレオロゴス | 
| 家名 | シシュマン家 | 
| 父親 | ブルガリア皇帝イヴァン・アレクサンダル | 
| 母親 | テオドラ | 
キラツァ・マリア(ブルガリア語:Кераца-Мария, 英語名:Keratsa of Bulgaria, 1348年 - 1390年)は、東ローマ帝国皇帝アンドロニコス4世パレオロゴスの皇后。
生涯
第二次ブルガリア帝国の皇帝イヴァン・アレクサンダルと、2人目の皇后テオドラ(ヴェネツィアの銀行家の娘。改宗ユダヤ人)の娘。
1355年にアンドロニコスと婚約する。この婚約は政略結婚としての側面もあり、婚姻証書には『東ローマ帝国とブルガリアのキリスト教徒にとって幸福なことであり、異教徒にとって災いとなるであろう』と記されている。しかし、夫であるアンドロニコスとその父、ヨハネス5世パレオロゴスは終始対立を続け、この対立はアンドロニコスが没するまで解消されなかった。実際に1376年8月12日にヨハネスを廃位、投獄したが、1379年7月1日に共同皇帝として復位を許した。
2人の間には1男2女が生まれた。一人息子はのちの皇帝ヨハネス7世パレオロゴスである。
1385年に夫が没すると、余生を尼僧マティッサとして修道院で過ごした。
固有名詞の分類
| 東ローマ皇后 | 
マリア・バグラティオニ テオファノ キラツァ・マリア チチャク マリー・ダンティオケ | 
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