パレオロゴス朝とは? わかりやすく解説

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パレオロゴス王朝

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/17 05:13 UTC 版)

パレオロゴス王朝(パレオロゴスおうちょう、ギリシア語: Παλαιολόγος Palaiologos/女性形:Παλαιολογίνα Palaiologina パレオロギナ)は、東ローマ帝国最後の王朝1261年 - 1453年)。古代ギリシャ語の発音にしたがってパライオロゴス王朝あるいはパラエオロゴス王朝と呼ばれることもある。


  1. ^ ミカエル8世自身との血縁はないが、母方でミカエルの姉マリア-マルサの血をひいている。


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パレオロゴス朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 09:28 UTC 版)

東ローマ帝国の皇帝一覧」の記事における「パレオロゴス朝」の解説

詳細は「パレオロゴス王朝」を参照 肖像名称生年誕生在位期間即位背景没年 ミカエル8世パレオロゴス Μιχαήλ Η' Παλαιολόγος 1225年 1261年12月25日 - 1282年12月11日 アンドロニコス・ドゥーカス・コムネノス・パレオロゴスとアレクシオス3世アンゲロス孫娘テオドラ・アンゲリナ・パレオロギナの子1259年からニカイア帝国共同皇帝となり帝国事実上乗っ取る1261年最後ラテン皇帝ボードゥアン2世からコンスタンティノポリス奪回息子アンドロニコスを共同統治者として、皇帝即位1282年12月11日 アンドロニコス2世パレオロゴス Ανδρόνικος Β' Παλαιολόγος ο Γέρος 1259年3月25日 1282年12月11日 - 1328年5月24日 ミカエル8世パレオロゴス長男父の死により即位1332年2月13日 ミカエル9世パレオロゴス共同皇帝) Μιχαήλ Θ' Παλαιολόγος 1277年 1294年 - 1320年 アンドロニコス2世パレオロゴスの子1294年、父から後継者目されていたため、共同皇帝指名された。 1320年 アンドロニコス3世パレオロゴス Ανδρόνικος Γ' Παλαιολόγος ο Νέος 1297年3月25日 1328年5月24日 - 1341年6月15日 ミカエル9世パレオロゴス皇后マリアの子素行悪さから祖父アンドロニコス2世によって帝位継承権剥奪される反旗を翻し7年にわたる内乱の末に祖父退位追い込んで皇帝即位した1341年6月15日 ヨハネス5世パレオロゴス Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος 1332年6月18日 1341年6月15日 - 1376年8月12日 アンドロニコス3世パレオロゴス長男父の死により即位1391年2月16日 ヨハネス6世カンタクゼノス Ιωάννης Στ' Καντακουζηνός 1295年 1347年2月8日 - 1354年12月4日 ミカエル・カンタクゼノスの息子ミカエル8世パレオロゴスの姉マリア-マルサ・パレオロギナの孫娘テオドラ・パレオロギナ・カンタクゼネの子摂政を巡る争い起きた内乱オスマン帝国皇帝オルハン支援得て勝利しヨハネス5世パレオロゴスとの共同統治という形式正帝として即位1383年6月15日 マタイオス・カンタクゼノス共同皇帝) Ματθαίος Ασάνης Καντακουζηνός 1325年 1353年 - 1357年 ヨハネス6世カンタクゼノスミカエル8世パレオロゴス孫娘イリニ・アサニナ・カンダクジニの長子。父によって共同皇帝後継者擁立された。 1383年6月 アンドロニコス4世パレオロゴス Ανδρόνικος Δ' Παλαιολόγος 1348年4月11日 1376年8月12日 - 1379年7月1日 ヨハネス5世パレオロゴスヨハネス6世カンタクゼノスの娘ヘレネー・カンタクゼネの長男1373年オスマン帝国皇帝ムラト1世長男サヴジ手を組んだ反乱失敗し帝位継承から外されるも、1376年ムラト1世支持得て起こした再度反乱コンスタンティノポリス皇帝として入城し父と二人の弟を投獄し全権掌握した1385年6月28日 ヨハネス5世パレオロゴス復位) Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος 1332年6月18日 1379年7月1日 - 1390年4月14日 ヴェネツィア共和国ムラト1世援助を受け復位1391年2月16日 ヨハネス7世パレオロゴス対立皇帝) Ιωάννης Ζ' Παλαιολόγος 1370年 1390年4月14日 - 9月17日 アンドロニコス4世パレオロゴス第二次ブルガリア帝国皇女キラツァ・マリアの子オスマン帝国皇帝バヤズィト1世ジェノヴァ共和国支援受けて祖父追放して皇帝即位1408年9月22日 ヨハネス5世パレオロゴス復位) Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος 1332年6月18日 1390年9月17日 - 1391年2月16日 次男マヌエル2世救援オスマン帝国支援によって反撃成功し復位した1391年2月16日 マヌエル2世パレオロゴス Μανουήλ Β' Παλαιολόγος 1350年6月27日 1391年2月16日 - 1425年7月21日 ヨハネス5世とヘレネー・カンタクゼネの次男父の死により即位1425年7月21日 ヨハネス8世パレオロゴス Ιωάννης Η' Παλαιολόγος 1392年12月18日 1425年7月21日 - 1448年10月31日 マヌエル2世とイェレナ・ドラガシュの長男父の死により即位1448年10月31日 コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス Κωνσταντίνος ΙΑ' Παλαιολόγος Δραγάτσης 1405年2月8日 1449年1月6日 - 1453年5月29日最後の皇帝マヌエル2世とイェレナ・ドラガシュの四男(五男)。兄の死後、弟デメトリオスとの間に後継者争い起きたが、最終的にコンスタンティノスモレアス専制公領首都ミストラス即位オスマン帝国侵略から東ローマ帝国防衛しようとするが、1453年首都コンスタンティノポリス陥落乱戦の中で戦死するこれをもって東ローマ帝国滅亡する1453年5月29日 1453年東ローマ帝国滅亡

※この「パレオロゴス朝」の解説は、「東ローマ帝国の皇帝一覧」の解説の一部です。
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