パレオロゴス王朝
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パレオロゴス王朝(パレオロゴスおうちょう、ギリシア語: Παλαιολόγος Palaiologos/女性形:Παλαιολογίνα Palaiologina パレオロギナ)は、東ローマ帝国最後の王朝(1261年 - 1453年)。古代ギリシャ語の発音にしたがってパライオロゴス王朝あるいはパラエオロゴス王朝と呼ばれることもある。
- ^ ミカエル8世自身との血縁はないが、母方でミカエルの姉マリア-マルサの血をひいている。
- 1 パレオロゴス王朝とは
- 2 パレオロゴス王朝の概要
- 3 歴史
- 4 文化
- 5 脚注
パレオロゴス朝
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「東ローマ帝国の皇帝一覧」の記事における「パレオロゴス朝」の解説
詳細は「パレオロゴス王朝」を参照 肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年 ミカエル8世パレオロゴス Μιχαήλ Η' Παλαιολόγος 1225年 1261年12月25日 - 1282年12月11日 アンドロニコス・ドゥーカス・コムネノス・パレオロゴスとアレクシオス3世アンゲロスの孫娘テオドラ・アンゲリナ・パレオロギナの子。1259年からニカイア帝国の共同皇帝となり帝国を事実上乗っ取る。1261年、最後のラテン皇帝ボードゥアン2世からコンスタンティノポリスを奪回。息子アンドロニコスを共同統治者として、皇帝に即位。 1282年12月11日 アンドロニコス2世パレオロゴス Ανδρόνικος Β' Παλαιολόγος ο Γέρος 1259年3月25日 1282年12月11日 - 1328年5月24日 ミカエル8世パレオロゴスの長男。父の死により即位。 1332年2月13日 ミカエル9世パレオロゴス (共同皇帝) Μιχαήλ Θ' Παλαιολόγος 1277年 1294年 - 1320年 アンドロニコス2世パレオロゴスの子。1294年、父から後継者と目されていたため、共同皇帝に指名された。 1320年 アンドロニコス3世パレオロゴス Ανδρόνικος Γ' Παλαιολόγος ο Νέος 1297年3月25日 1328年5月24日 - 1341年6月15日 ミカエル9世パレオロゴスと皇后マリアの子。素行の悪さから祖父アンドロニコス2世によって帝位継承権を剥奪されると反旗を翻し、7年にわたる内乱の末に祖父を退位に追い込んで皇帝に即位した。 1341年6月15日 ヨハネス5世パレオロゴス Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος 1332年6月18日 1341年6月15日 - 1376年8月12日 アンドロニコス3世パレオロゴスの長男。父の死により即位。 1391年2月16日 ヨハネス6世カンタクゼノス Ιωάννης Στ' Καντακουζηνός 1295年 1347年2月8日 - 1354年12月4日 ミカエル・カンタクゼノスの息子とミカエル8世パレオロゴスの姉マリア-マルサ・パレオロギナの孫娘テオドラ・パレオロギナ・カンタクゼネの子。摂政権を巡る争いで起きた内乱でオスマン帝国皇帝オルハンの支援を得て勝利し、ヨハネス5世パレオロゴスとの共同統治という形式で正帝として即位。 1383年6月15日 マタイオス・カンタクゼノス (共同皇帝) Ματθαίος Ασάνης Καντακουζηνός 1325年 1353年 - 1357年 ヨハネス6世カンタクゼノスとミカエル8世パレオロゴスの孫娘イリニ・アサニナ・カンダクジニの長子。父によって共同皇帝・後継者に擁立された。 1383年6月 アンドロニコス4世パレオロゴス Ανδρόνικος Δ' Παλαιολόγος 1348年4月11日 1376年8月12日 - 1379年7月1日 ヨハネス5世パレオロゴスとヨハネス6世カンタクゼノスの娘ヘレネー・カンタクゼネの長男。1373年にオスマン帝国皇帝ムラト1世の長男サヴジと手を組んだ反乱に失敗し帝位継承から外されるも、1376年にムラト1世の支持を得て起こした再度の反乱でコンスタンティノポリスに皇帝として入城し父と二人の弟を投獄して全権を掌握した。 1385年6月28日 ヨハネス5世パレオロゴス (復位) Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος 1332年6月18日 1379年7月1日 - 1390年4月14日 ヴェネツィア共和国とムラト1世の援助を受け復位。 1391年2月16日 ヨハネス7世パレオロゴス (対立皇帝) Ιωάννης Ζ' Παλαιολόγος 1370年 1390年4月14日 - 9月17日 アンドロニコス4世パレオロゴスと第二次ブルガリア帝国皇女キラツァ・マリアの子。オスマン帝国皇帝バヤズィト1世とジェノヴァ共和国の支援を受けて祖父を追放して皇帝に即位。 1408年9月22日 ヨハネス5世パレオロゴス (復位) Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος 1332年6月18日 1390年9月17日 - 1391年2月16日 次男マヌエル2世の救援とオスマン帝国の支援によって反撃に成功し、復位した。 1391年2月16日 マヌエル2世パレオロゴス Μανουήλ Β' Παλαιολόγος 1350年6月27日 1391年2月16日 - 1425年7月21日 ヨハネス5世とヘレネー・カンタクゼネの次男。父の死により即位。 1425年7月21日 ヨハネス8世パレオロゴス Ιωάννης Η' Παλαιολόγος 1392年12月18日 1425年7月21日 - 1448年10月31日 マヌエル2世とイェレナ・ドラガシュの長男。父の死により即位。 1448年10月31日 コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス Κωνσταντίνος ΙΑ' Παλαιολόγος Δραγάτσης 1405年2月8日 1449年1月6日 - 1453年5月29日 (最後の皇帝) マヌエル2世とイェレナ・ドラガシュの四男(五男)。兄の死後、弟デメトリオスとの間に後継者争いが起きたが、最終的にコンスタンティノスがモレアス専制公領の首都ミストラスで即位。オスマン帝国の侵略から東ローマ帝国を防衛しようとするが、1453年に首都コンスタンティノポリスが陥落、乱戦の中で戦死する。これをもって東ローマ帝国は滅亡する。 1453年5月29日 1453年:東ローマ帝国滅亡
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