イサウリア朝とは? わかりやすく解説

イサウリア朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 06:01 UTC 版)

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イサウリア朝の版図(717年)

イサウリア王朝(イサウリアおうちょう、ギリシア語: Δυναστεία Ισαύρων717年 - 802年)は、東ローマ帝国王朝。5人の皇帝を輩出した。名前は初代のレオーン3世が小アジアのイサウリア出身であったと言われていたことに由来するが、近年の研究ではこれは誤りであり、レオーン3世はシリアキリキア地方の境域部に位置するゲルマニケイア(現マラシュ)の出身であったことが分かっている。このためシリア朝と呼ばれることもある。

3代目のレオーン4世が死ぬと、幼いコンスタンティノス6世に代わって母后エイレーネーが摂政となった。しかしコンスタンティノス6世が長ずるに従って母子の関係は悪化し、エイレーネーは実の息子の目をくり抜いた上で追放して帝位に就いた。この経緯から彼女は市民の支持を全く得られず、財政政策における失敗も重なって財務長官ニケフォロスによって廃位された。ここにイサウリア朝は断絶し、ニケフォロスがニケフォロス1世として即位してニケフォロス朝が始まった。

イサウリア朝皇帝一覧

系図

 
レオーン3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
コンスタンティノス5世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
レオーン4世
 
エイレーネー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
コンスタンティノス6世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エウフロシュネ
 
ミカエル2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アモリア朝
 


先代:
ヘラクレイオス王朝
東ローマ帝国
717年 - 802年
次代:
ニケフォロス王朝

イサウリア朝(シリア朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 09:28 UTC 版)

東ローマ帝国の皇帝一覧」の記事における「イサウリア朝(シリア朝)」の解説

詳細は「イサウリア朝」を参照 肖像名称生年在位期間即位背景没年 レオーン3世“イサウロス” (イサウリア) Λέων Γ' ο Ίσαυρος 685年717年3月25日 - 741年7月18日 ゲルマニケイア(現カフラマンマラシュ)の出身アナスタシオス2世によってテマ・アナトリコン長官任じられるイスラーム軍の司令官であるマスラマ(アブドゥルマリク息子)がアナトリコンの中心都市であるアモリオン迫っていたときに計略によってマスラマの軍を一旦後退させたあと、テマ・アルメニアコンの長官盟友のアルタヴァスドスとともにコンスタンティノポリス向かったコンスタンティノポリス対岸クリュソポリス到達すると、コンスタンティノポリス総主教のゲルマノス1世らがテオドシオス3世退位させ、即位741年7月18日 コンスタンティノス5世“コプロニュモス” (糞) Κωνσταντίνος Ε' ο Κοπρώνυμος ή Καβαλίνος 718年 741年7月18日 - 775年9月14日 レオーン3世の子741年父の死により即位する。しかし即位翌年義理の兄であったアルタヴァストスに反乱起こされて、一時皇位追われてしまった。しかし皇帝として即位したアルタヴァストスはイコン擁護政策採用したため、小アジア国民の支持を得ることができず、小アジアテマ支持受けたコンスタンティノスは都へ進軍してアルタヴァスドスを破り、翌743年皇帝復位した775年9月14日 レオーン4世“ハザロス” (ハザール) Λέων Δ' Χάζαρος 750年 775年9月14日 - 780年9月8日 コンスタンティノス5世イレーネーの子父の死により即位780年9月8日 コンスタンティノス6世 Κωνσταντίνος ΣΤ' 771年 - 797年 780年9月8日 - 797年 レオーン4世エイレーネーの子父の死により即位11歳という幼少であったため、母が摂政となって政治取り仕切った797年 エイレーネー“アテナイア” (アテナイ人) Ειρήνη η Αθηναία 752年 797年 - 802年10月31日 レオーン4世皇后で、コンスタンティノス6世の母。コンスタンティノス長ずるにつれ彼女の意に沿わなくなり母子の仲は徐々に険悪になっていった。いったんは息子実権掌握したものの、ブルガリア遠征の失敗などから人望失ったエイレーネーは軍を動かして息子捕らえ、目をくりぬいた上で追放し帝国史上初の女帝として即位した803年8月9日 ニケフォロス1世 Νικηφόρος Α' 760年? 802年10月31日 - 811年7月26日 税務長官であったが、クーデター中心人物としてエイレーネー退位追い込んで即位した811年7月26日 スタウラキオス Σταυράκιος ? 811年7月26日 - 811年10月1日 ニケフォロス1世の子803年に父によって共同皇帝とされる811年父と共に第一次ブルガリア帝国討伐出陣したが、父は戦死し自身瀕死の重傷負ってしまい単独皇帝として政務を執れる状態にはなかった。 812年1月11日 ミカエル1世ランガベー Μιχαήλ Α' ο Ραγκαβέ ? 811年10月2日 - 813年7月11日 ニケフォロス1世娘婿で、スタウラキオス義弟瀕死の重傷負った義兄皇帝の座を譲られ即位することとなった844年1月11日 レオーン5世“アルメニオス” (アルメニア人) Λέων Ε' ο Αρμένιος ? 813年7月22日 - 820年12月25日 パトリキオスのバルダスの子ミカエル1世ブルガリアクルム戦って敗れた後、彼から譲位されて即位した820年12月25日

※この「イサウリア朝(シリア朝)」の解説は、「東ローマ帝国の皇帝一覧」の解説の一部です。
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