危機と変質 (7世紀 - 8世紀)
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「東ローマ帝国」の記事における「危機と変質 (7世紀 - 8世紀)」の解説
「ヘラクレイオス王朝」および「イサウリア朝」も参照 608年にカルタゴのアフリカ総督(英語版)大ヘラクレイオス(英語版)が反乱を起こし、610年にカルタゴ総督・大ヘラクレイオスの子のヘラクレイオス(イラクリオス/在位:610年 - 641年)が皇帝に即位した。ヘラクレイオスは、西突厥の二度にわたる戦争(第二次ペルソ・テュルク戦争(英語版)、第三次ペルソ・テュルク戦争)に助けられ、シリア・エジプトへ侵攻した(英語版)サーサーン朝ペルシアをニネヴェの戦い (627年)で破るなどして東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)に勝利し、領土を奪回することに成功した。627年にハザールを主力とする「東のテュルク」と同盟を結んだが、628年に統葉護可汗が殺され、後継者問題にゆれる西突厥との同盟関係は失われた。 東ローマ領内では既に4世紀からラテン語の重要性は次第に低下しつつあり、ギリシア語が徐々に事実上の公用語へと変わっていた。それでもなおラテン語は「ローマ人の言語」としてその重要性の維持が試みられもしたが、5世紀中には文官たちにとってラテン語の習得はもはや必要なものではなくなっていた。軍はラテン語の伝統を最も長く保持し、6世紀に至るまで公式の行政文書をラテン語で書いたが、全体として東ローマ帝国領内におけるラテン語使用が時間と共に低迷する潮流は変わらなかった。ヘラクレイオスはこの変化を公式に認め、620年にはギリシア語が公用語であることを承認した。また、ヘラクレイオスはサーサーン朝に対する勝利の後、古くから蛮族の王を指す通用的な用語であった「バシレウス(Βασιλεύς, ヴァシレフス)」を公式儀礼用語として使用するようになった。この言葉はラテン語の"rex"に対応し、以降帝国の滅亡まで用いられた。古くからのローマ的称号であるアウグストゥス(アウグストス)も公式儀礼用語として使用され続けたが、その場合でも「信者ヴァシレフス」が必ず付された。
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