危機と打開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 15:20 UTC 版)
「アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)」の記事における「危機と打開」の解説
レオン王アルフォンソ9世はティエラ・デ・カンポスを襲撃、ナバラ王サンチョ7世(サンチョ6世の子、母方の従兄)もソリアとラ・リオハへ侵攻してカスティーリャは再度両国から挟み撃ちに遭った。だが、アラゴン王ペドロ2世(アルフォンソ2世の子、父方の従弟)の助けを得て態勢を立て直し、1196年にアルフォンソ9世がケレスティヌス3世の怒りを買い破門、1197年にアルフォンソ8世の娘ベレンゲラとの結婚で和睦して包囲網が崩れると、同年にアルフォンソ8世はマンスールと10年の休戦を結び危機を脱した。休戦はマンスールの息子ムハンマド・ナースィルとも結ばれ、1210年まで延長された。アルフォンソ9世とベレンゲラ夫妻はケレスティヌス3世の後を継いだ教皇インノケンティウス3世から近親婚を理由に結婚を認められず、1204年に離婚するが、2人の間に生まれた孫フェルナンド(後のフェルナンド3世)はレオンの後継者とされた。 レオンとの関係を修復したアルフォンソ8世はナバラへの報復を計画、ペドロ2世と組んでナバラへ侵攻した。サンチョ7世はなす術も無く降伏、1200年にアラバ・ギプスコア・ビスカヤはカスティーリャが獲得、大西洋沿岸地域を手中に収めた。逆に海への出口を奪われたナバラは内陸国となり、カスティーリャ優位の下で逼塞した。こうして強国の地位を取り戻したアルフォンソ8世はしばらく軍事行動は控えたが、インノケンティウス3世はムワッヒド朝の対決に向けキリスト教国の対立解消に奔走、1209年までに諸国間の和睦を実現させ、イベリア半島へ十字軍遠征を呼びかけた。アルフォンソ8世も教皇勅書を望み、トレド大司教を通して教皇と連絡を取り合った。
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