危機とその克服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 20:19 UTC 版)
次郎太夫の指揮の下、まず青ヶ島 - 八丈島間をつなぐ船の建造が開始された。文政元年(1818年)6月には青ヶ島で開発に従事する人たちのための米、粟、麦が用意されており、本格的な青ヶ島の復興が開始されたことが確認できる。文政5年(1822年)ごろにはかなり多くの島民が青ヶ島へ戻って生活をするようになっていたようで、青ヶ島に「頭取世話人」を置く話が持ち上がった。しかし名主次郎太夫の指揮の下に復興にいそしんでいた島民たちは、頭取世話人の設置を断った。 しかし次郎太夫による青ヶ島の復興はすべて順調に進んだわけではなかった。まずこれまでの復興事業で大きな問題となったネズミは、相変わらず復興の大きな妨げとなった。また復興に携わる人たちの「和」を何よりも重視した次郎太夫の指導下でも仲間割れは発生した。文政7年(1824年)5月の記録では、当時次郎太夫は八丈島にあって青ヶ島復興の総指揮を行い、青ヶ島では年寄の多兵衛が指揮を取っていたが、青ヶ島島内で多兵衛の派閥が勢力を持ち始め、次郎太夫や八丈島の地役人に対する批判を行い、また多兵衛の派閥に属さない人々を圧迫するようになった。そのため青ヶ島で復興に携わる人々同士の人間関係が悪化し、復興どころではなくなってしまった。この緊急事態に次郎太夫がどのような処断を下したかは明らかになっていないが、年寄を交代させ関係者を処罰したと考えられている。
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