東方問題の原点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 23:39 UTC 版)
教皇への寄進とバグダード遣使は後ウマイヤ朝を孤立させた。この政策は後世のカピチュレーションに等質である。 7世紀末にウマイヤ朝が東ローマ帝国のヘラクレイオス王朝を無政府状態に陥らせたが、後継のイサウリア朝がウマイヤ朝を押し返し弱らせた。ウマイヤ朝は732年トゥール・ポワティエ間の戦いでピピンの父でフランク王国の宮宰であったカール・マルテルに敗れ、やがてアッバース朝に交代した。 イサウリア朝の軍費はレヴァント貿易から捻出されていたが、商圏の文化は当然に政治を動かした。726年ビザンツ皇帝レオン3世が聖像禁止令を出したのである。イコノクラスムが117年間も続いた。732年、トゥール・ポワティエ間の戦いが起こった年にローマ教皇と東ローマの対立が深まった。やがて、東ローマのものだったラヴェンナ総督領は寄進されてしまった。 800年のカール大帝の戴冠から2世紀にわたり、ノルマン人が欧州を略奪しながら東方の商圏と交流した。843年ヴェルダン条約が成って、ノルマン人が西フランク王国を集中攻撃できるようになった。この年、コンスタンティノープルの公会議で絵画・壁画・ステンドグラス等、平面像に限り崇拝が許された。それから20年ほど、イサウリア朝とアッバース朝は戦争と和議をくり返し、つまりはイコノクラスムをひきずり独自外交を展開した。ローマ帝国の東西分離は1054年に決定的となった。 寄進の前後における大局的な交戦勢力はカトリックと聖像破壊勢力であった。双方から十字軍が派遣され、荒廃したレヴァントに13世紀オスマン帝国が興った。聖像破壊勢力はフランスでのユグノー戦争でカルヴァン派という名前を得た。フォンテーヌブローの勅令により世界へ散ったユグノーは、東方問題をめぐり旧教のドイツ・イタリアと争い続け、第一次世界大戦で勝利する。
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