東方問題の中での近代化と独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 09:36 UTC 版)
「ルーマニアの歴史」の記事における「東方問題の中での近代化と独立」の解説
1699年のカルロヴィッツ条約以降、この地域はオーストリア帝国とロシア帝国の影響を強く受けることになった。1821年、ギリシャ独立戦争の嚆矢としてトゥドル・ウラジミレスクによってワラキア蜂起が勃発したが、これはオスマン帝国によって鎮圧された。 19世紀にはロシアが占領したが、オスマン帝国の宗主下でワラキア、モルダヴィアの連合公国が成立。1859年にアレクサンドル・ヨアン・クザが両公国の公となり、1861年にルーマニア公国へと統合された。しかし保守貴族が反発しクザは退位させられた。1866年には新憲法が起章され、ドイツのホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家からカロル1世が迎えられた。カロル1世は国内の近代化を推進し、1877年の露土戦争に参戦。この年の5月9日に独立を宣言、オスマン帝国と独立戦争を展開、翌年のサン・ステファノ条約とベルリン協定で列強の承認をうけた。1881年には、カロル1世は国王に即位し、ルーマニア王国が樹立された。
※この「東方問題の中での近代化と独立」の解説は、「ルーマニアの歴史」の解説の一部です。
「東方問題の中での近代化と独立」を含む「ルーマニアの歴史」の記事については、「ルーマニアの歴史」の概要を参照ください。
- 東方問題の中での近代化と独立のページへのリンク