ベルリン協定
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モスクワ条約において問題となったベルリンの地位に関する協定については1971年9月3日に4ヵ国協定として調印の運びとなった。この協定の締結に際して東ドイツは①オーデル・ナイセ線を含む戦後の全ての国境の承認、②両ドイツ間の大使交換、③西ベルリンを独立の政治的単位として同市と西ドイツとの間に然るべき別の関係を持つことを認めるの3点を要求した。一方西ドイツは逆提案として①ドイツ民族の統一を維持する義務、②国際法の諸原則の適用、③相互の領土内の社会組織を変更しない了解、④隣国として相互協力の努力、⑤ベルリン及びドイツ全体に対する4ヵ国の権利と義務の尊重、⑥ベルリン内及びその周辺の状勢を向上させようとする4ヵ国の試みの尊重、を逆提案した。 このベルリン協定においては西ベルリンの西ドイツ帰属は否定されたものの西ベルリンと西ドイツの結びつきが承認されて自由通行が認められた。この時、ブラントの狙いはドイツとポーランドの国境線を受け入れる代わりにベルリンに関してソ連の譲歩を引き出すことであった。必ずしもそれは成功したとは言えないが、西側諸国のベルリンへのアクセス権をソ連が認め、ベルリンとボンとの政治的な繋がりの正当性を認める一方で、ブラントはベルリンにおける西ドイツの政治的役割を縮小していくことを約束し、将来的に西ベルリンを西ドイツに統合するという望みは放棄した。また西側諸国が東ドイツを承認することでソ連はベルリンにおける4ヵ国の役割の継続を認めた。これらは現状を追認しただけに過ぎないものだったが、それでもこの合意は重要な意義を持っていた。1971年12月に西ドイツと西ベルリンとの間の通行を保障するトランジット協定が締結され、1972年5月に広範な通過合意が交わされて、そして最終的に1972年12月に東西ドイツ基本条約が締結されて、東西ドイツが相互に相手国を承認し、武力行使を放棄して相互間の通商と観光の増大を図ることを合意した。
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