ベルリン協定とは? わかりやすく解説

ベルリン協定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:43 UTC 版)

ヴィリー・ブラント」の記事における「ベルリン協定」の解説

モスクワ条約において問題となったベルリン地位に関する協定については1971年9月3日に4ヵ国協定として調印運びとなった。この協定の締結に際して東ドイツは①オーデル・ナイセ線を含む戦後全ての国境承認、②両ドイツ間の大使交換、③西ベルリン独立政治的単位として同市と西ドイツとの間に然るべき別の関係を持つことを認めるの3点要求した一方西ドイツは逆提案として①ドイツ民族統一維持する義務、②国際法諸原則適用、③相互領土内の社会組織変更しない了解、④隣国として相互協力努力、⑤ベルリン及びドイツ全体対する4ヵ国の権利と義務尊重、⑥ベルリン内及びその周辺状勢を向上させようとする4ヵ国の試み尊重、を逆提案した。 このベルリン協定においては西ベルリン西ドイツ帰属否定されたものの西ベルリン西ドイツ結びつき承認され自由通行が認められた。この時、ブラント狙いドイツとポーランド国境線受け入れ代わりにベルリンに関してソ連譲歩引き出すことであった。必ずしもそれは成功したとは言えないが、西側諸国ベルリンへアクセス権ソ連認めベルリンボンとの政治的な繋がり正当性認め一方でブラントベルリンにおける西ドイツ政治的役割縮小していくことを約束し将来的西ベルリン西ドイツ統合するという望み放棄した。また西側諸国東ドイツ承認することでソ連ベルリンにおける4ヵ国の役割継続認めた。これらは現状追認しただけに過ぎないのだったが、それでもこの合意重要な意義持っていた。1971年12月西ドイツ西ベルリンとの間の通行保障するトランジット協定締結され1972年5月広範な通過合意交わされて、そして最終的に1972年12月東西ドイツ基本条約締結されて、東西ドイツ相互に相手国を承認し武力行使放棄して相互間の通商観光増大を図ることを合意した

※この「ベルリン協定」の解説は、「ヴィリー・ブラント」の解説の一部です。
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