ベルリン包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 15:17 UTC 版)
ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの誕生日である4月20日、第1白ロシア方面軍の砲兵部隊はベルリン市中央部に砲撃を開始したが、これはベルリン市が降伏するまで続いた(戦後、ソ連はその砲撃は西側連合国軍による空襲よりも量が多く、効果が高かったとしている)。その砲撃の最中、第1白ロシア方面軍は、ベルリン市の東方面から北東部を包囲し始めた。 一方、第1ウクライナ方面軍はドイツ中央軍集団(司令官フェルディナント・シェルナー元帥)の北側防衛線を突破、ユーターボーク(ドイツ語版)北方へ進撃、その途中、エルベ川沿いのマクデブルクへ進撃していたアメリカ軍と邂逅した。 また、第2白ロシア方面軍(司令官コンスタンチン・ロコソフスキー元帥)は、シュテッティン- シュヴェート(ドイツ語版)間北方で、ヴァイクセル軍集団(司令官ゴットハルト・ハインリツィ上級大将)配下の第3装甲軍(司令官ハッソ・フォン・マントイフェル大将)の防衛線の北側中央部を攻撃した。その結果、4月24日までには、第1白ロシア方面軍と第1ウクライナ方面軍の主力は、ベルリン市の包囲を完了、その翌日の25日、第2白ロシア方面軍がシュテッティンに築いた橋頭堡を足がかりに第3装甲軍の防衛線を南へ突破、ランドウ(ドイツ語版)湿地を横断したが、それはバルト海に面したシュトラールズントの港へ進出していたイギリス軍第21軍集団のところまで障害無しに北進することが可能になったことを意味した。 第5親衛軍配下のソビエト第58親衛師団は、エルベ川沿いのトルガウ(ドイツ語版)近くで、アメリカ第1軍配下の第69歩兵師団と邂逅した。ベルリンを包囲した赤軍はSバーンを環状に形成したドイツ軍防衛線へ徹底的に浸透し、しらみつぶしに撃破していた。4月25日遅く、戦いの最終局面は、すでにベルリン市内に移り、ベルリン市におけるドイツ防衛部隊の戦いが赤軍による占領を遅らせるとは思われなかった。
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