ベルリン分断時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/03 14:04 UTC 版)
「ベルリンの行政区」の記事における「ベルリン分断時代」の解説
ヤルタ会議では、連合軍は既にベルリンの分割占領を取り決めていた(後の四か国分割占領都市 (Viersektorenstadt))。占領区域は既存の区境界線に基づき決められた。第二次世界大戦後、当初は共同管理下に置くものとされたベルリンであったが、西側連合国とソヴィエト連邦の相違は埋まらず、遂には都市が分割されることになった。時を置いて西ベルリン、東ベルリンでは、それぞれ独自の行政機構が設置された。 東ベルリンでは1952年に「区 (Bezirk)」は「都市区 (Stadtbezirk)」に改称されたが、これは東ドイツが新規編成した県 (Bezirk) と明確に区別するためであった。 1970年代から1980年代にかけて、都市東部では大規模な住宅団地が新設され、東ベルリンでは1920年の大ベルリン法が制定した20区を超えて、新たに3区が編成された。マルツァーン区(1979年にリヒテンベルク区からマルツァーン(ドイツ語版)地区、ビースドルフ(ドイツ語版)地区、カウルスドルフ(ドイツ語版)地区、ヘラースドルフ(ドイツ語版)地区、マールスドルフ(ドイツ語版)地区を分離編成)、ホーエンシェーンハウゼン区(1985年にヴァイセンゼー区の一部から編成)、ヘラースドルフ区(1986年にマルツァーン区の一部から編成)である。ホーエンシェーンハウゼン区を分離、新設するに当たって、残るヴァイセンゼー区を区として存立させるため、適正な面積を維持する必要が生じた。そのためパンコウ区から数地区(ハイナースドルフ(ドイツ語版)、ブランケンブルク(ドイツ語版)、カーロウ(ドイツ語版))が編入された。
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