1972年12月とは? わかりやすく解説

1972年12月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 15:05 UTC 版)

ウルグアイ空軍機571便遭難事故」の記事における「1972年12月」の解説

生存者のひとりナンド・パラードは、34年後の2006年著書アンデスの奇蹟-南米アンデス高山墜落した旅客機 生還者みずからが語る72日間真実』(en)』でこのときの寝袋について綴っている。 「 2度目挑戦では、日没後の外気への露出から身を守らなければならなかった。我々が死にそうなほどに夜はまだ寒く一年のこの時期昼間でも、広く露出したスロープでは避難できないこと分かっていた。凍死することなく長い夜乗り切る方法必要だった。我々は、尾部断熱材巻き付いたポール発見して解決した。(中略遠征について皆で議論し一緒にパッチを縫うことで、大きく暖かいキルト作れると分かった。我々はキルト半分折り重ね継ぎ目縫い合わせて、3人が遠征に耐えられるだけの断熱性のある寝袋作った。3人の体温断熱布によって保持されるなら、最も寒い夜を乗り切ることが可能かも知れなかった。カルリトス・パエスが作業やってみると言った。彼は、少年だったときに母から裁縫教わっていた。母の化粧箱から裁縫用の針と糸見付けて作業取りかかった。(中略)彼は他の生存者たちにも裁縫教え交代作業行った。(中略)我々の中で、コチェおよび、グスターボ、フィトが最も仕立て作業速いことが分かった。 」 12月9日(土) ナンド・パラード誕生日で、尾部見付かった葉巻他の生存者たちが誕生日プレゼントとして与えた12月11日(月) 捜索機上空通過するときに備えて中にスーツケース大きな十字描いた。 アルフレド・"パンチョ"・デルガド親友であったヌマ・トゥルカッティが死亡した死亡29人、生存16人)。 12月12日(火) 寝袋完成後、ロベルト・カネッサ出発ためらっている者を最終的に説得しロベルト・カネッサナンド・パラードアントニオ・"ティンティン"・ビシンティンの3人がチリへ向かう谷を見つけるために最終的な遠征出発したパラード先頭に立ち、行進速度緩めるために頻繁に声をかけた。登り行程は、厳し長旅となった。夜、巨大な岩の横で仲間たち縫い上げた寝袋眠った厳寒であったが、寝袋によって数夜を生き延びることができた。 12月13日(水) カネッサは、渓谷見て、それが道路であると考えたが、そのときそのことを他の2人に話さなかった。グループ登り続け午後までには、睡眠のための前日同じよう大きな岩に達した。カネッサが道路について言及し、引き返すことを主張したが、パラード異なった意見述べた議論続いたが、決断下すことなく彼らは眠りについた機体食料備蓄が底を突きかけ、グスターボ・セルビーノとアドルフォ・"フィト"・ストラウチは死体探し機体出て1体発見したが、2人はそれを機体回収することができないほど疲れていた。 12月14日(木) ビシンティンとパラード登山続けたが、カネッサは道路考えた地点観察するために宿泊地点から動いていなかった。パラードたちは山の頂上到達したが、パラードはその光景に息を飲んだ彼の前に見渡す限り広がっていたのは、より多く山々だった。山脈眼前小さく「Y」の文字のように遠くまで広がり当初の計画であった山脈越えて救助求め望み絶たれた。 食料消費最小限抑えるために、パラードとカネッサが遠征継続し、ビシンティンは自分食料2人預けて墜落地点戻った帰りルートは、下るだけであり、壊れた機体部品から作成したソリがあったので、1時間しかかからなかった。残った2人はその晩はその場眠った機体では、カルリトス・パエスとホセ・ペドロ・アルゴルタがより多く遺体探しながら谷を通って登った。1体発見し腐敗を防ぐために覆った12月15日(金) パラードとカネッサは、遠征出発してから9日目(12月20日)の昼間の休息以外は、再開から7日以上歩き続けていた。 朝、機体残った13人の男たちが何かが山を滑り降りて来るのを発見した初め岩石だと思ったが、ビシンティンが機体座席利用したソリ使っていることがわかった到着同時に、ビシンティンはカネッサとパラードがまだチリ向かって遠征続けており、ビシンティンの分の食料2人預けた説明した前日アドルフォ・"フィト"・ストラウチ、グスターボ・セルビーノ、ホセ・ペドロ・アルゴルタが外で遺体探している間に、他の生存者たちがラジオ聴き、彼らがスーツケース雪上描いた十字ウルグアイ空軍C-47発見したことを知った12月16日(土) カネッサとパラード3時間を掛けて峰を登り、最も良い下りルート捜索した午後にソリかなりの距離を滑降した後に2人眠りについた12月17日(日) 機体生存者たちは、彼らがスーツケース雪上描きウルグアイ空軍C-47によって発見され十字が、アルゼンチン気象学者融雪測定のために円錐形マーカー描いたのである公表されたことに驚愕したパラードとカネッサは、決めたルート通り進み正午までに山のふもとに達して、谷へ進んだ。ある場所で休息したとき、近く小川コケアシ生えているのを発見した。それは彼らが遭難以来初めて目にした植物だった。カネッサは、ハーブ摘んで食べた12月18日(月) パラードは、谷の下方から登っているとき、先のものを見ようとして足を速め、カネッサを置き去りにした。進んでいくと、雪道終わり植物がたくさ生い茂っていた。小川は西に向かって注ぎ動物がいる可能性もあった。彼らはその光景驚いた休息しながら川に向かって歩き続けた。カネッサはしばらくしてサングラス落としたことに気づいた。それがなければ反射する太陽の光網膜焼かれ失明する危険があった。2人サングラスを見つけるために一旦引き返しサングラス発見後、再び川に向かって歩き続けた。夜、彼らは機体出発して以来初めてぐっすりと眠ることができた。 12月19日(火) 朝、2人は牛の群れ発見した。これは彼らの歩み希望となった次に文明最初兆しである空のスープ缶と蹄鉄発見したその後多くの牛と切り倒された木を見たとき、文明圏間近であることが確かだ考えた。彼らは救出されることを確信し熟睡した12月20日(水) 彼らは、起床した後、リュックサックから寝袋など不要になったものを捨てて歩き続けたが、その後文明兆し発見できなかった。カネッサが吐き気催したので、パラード彼の荷物代わりに担いだ最終的に、彼らは石の柵囲いまで到達し、そこを寝床決めた。 眠る前にパラード自分たちが進もうとしているルート2番目に発見した川で遮られたことに気づいた。胃けいれん起こしていたカネッサは、拾っていたとき、川の向こう岸に居る馬に乗った男性のようなものに気がつき、近眼パラード大声斜面走り降りるように言ったパラードは、カネッサが叫んだのを聞いて川へ向かって走ったが、男性発見することはできなかった。 パラードは、最初はカネッサの想像にすぎない思っていたが、少しして、川の向こう岸誰かが叫んでいるのを聞く同時に馬の背ウアッソ男性が3人乗っているのを確認した。カネッサとパラードは、川に走り寄り自分たちが絶望的で、助け求めていることを身振り示した乗り手1人は、馬を抑制しながら何かを彼らへ大声叫んだ乗り手1人、セルヒオ・カタランは、2人に、「明日」と叫んだ明日助けられれば、それで十分だった2人はこの時点救助されることを確信し歓喜震えながら川のそばで寝入った出発から9日経過していた。 12月21日(木) 機体では、カルロス・パエス、ダニエル・フェルナンデス遠征隊が救援求めることに成功したという兆し待っていた。 セルヒオ・カタランが川へ来た。紙と鉛筆を結びつけた石を川の向こう岸2人投げたパラードがそれを拾って読むと、「すぐそこ到着するように人間送ったと書かれていた。パラード書いて投げ返した。「私は山へ墜落した飛行機から来ました。ウルグアイ人です。私たち10日間歩いています。墜落地点負傷した友人残してます。まだ飛行機に14人の負傷者居ます私たちここから早く脱出しなければなりませんが、どうした良いのかわかりませんほんの少し食料もありません。私たちは非常に衰弱してます。あなたはいつ私たち救出し来てくださるでしょうか? 私たちは歩くことが出来ません。ここはどこですか? SOS」 セルヒオ・カタランはその文章を読むと、2人身体全体大きく了承の意を示したカタランは、馬を走らせ数時間後に2人元へ到着した。カネッサとパラード遭難事故について簡潔に説明したカタランは、貪欲に食事求め2人小屋パン与えたカタラン税関検査官へ2人の手紙を見せ税関検査官たちがサンディアゴから3機のヘリコプター出発したカタラン2人伝えた機体生存者たちは、2人遠征隊が発見され無事に救出されたというニュースラジオ聞いた12月22日(金) 朝まで山が包まれており、ヘリコプターを飛ばすことができないことパラードとカネッサは、愕然とした10月13日起きた墜落事故生存者たち厳しい環境下で生き延びたというニュース世界中報道機関注目させ、その後関係者の下には洪水のようにレポーターたちが訪れたパラードとカネッサは朝食を摂り、増加する報道陣会った。彼らは熱心に質問答えたが、どうやって生存できたかについては話すのを避けた午後に小さな(ロス・マイテネス)にヘリコプター到着した同乗したパラードによって誘導されフェアチャイルド機が横たわる墜落地点までの谷を飛び生存者たち2人捜索隊救出登山家によって救出された。救出されたとき、生存者の数は事故直後半分以下の16人に減っていた。ヘリコプター到着は、歓喜満ちた14人の生存者たち歓迎された。1回目救助されることとなった追加最大積載人員である6人は、救出されることを山に対して感謝した生存者たちがロス・マイテネス到着したとき、彼らは喜び頂点にあった抱擁し笑い転がり回り自分たちの救出祝った数時間後に、全員サンフェルナンドセント・ジョン病院収容された。 2回目救出飛行夜間にすることになり、さらに、覆われアンデス山脈衝突する危険があるため翌朝まで遅れた残りの8人の生存者たち機体中でも一夜眠らざるを得なかったが、毛布衣類食料を手にし、サポートとして医療班登山家が共に墜落地点にいた。 12月23日(土) 午前10時救助ヘリコプター機体に残る8人の生存者たちのために墜落地点戻った16人の生存者全員救助され喜び場面が再びロス・マイテネス繰り返された。2番目のグループは、最初の救助グループ異なり、まずチリコルチャグア輸送されてからサンティアゴ国民健康保険病院輸送された。生存者全てがサンディアゴの病院収容され高山病脱水症状凍傷骨折壊血病栄養失調治療受けた生存者6人はすぐに退院しシェラトンホテル行った。ロイ・アルレーとハビエル・メトルは、コチェ・インシアルテとアルバロ・マンヒーノが先に収容されていた4人部屋に引き留められた。19時に、アルレー、メトル、インシアルテ、マンヒーノ以外の生存者は皆、シェラトン・デ・サン・クリストバルで再会した12月24日(日) 4人が病院から退院しシェラトンホテルで他の皆と合流したロベルト・"ボビー"・フランソイスとダニエル・フェルナンデスモンテビデオ帰りそれ以外14人は、クリスマス・イブ一緒に祝った生存者たちは、救助直後には機内持ち込んでいたチーズ食べて生き延びていたと説明していたが、家族詳細かつ内密に議論し遺体食べざるを得なかったことを公にしようと考えた12月26日(火) グループ別れパラードサンティアゴ離れてビナ・デル・マールの家に引っ越した生存者たちは、モンテビデオへ戻るときに記者会見を行うことを計画していた。 しかし、機内残されたままの切り分けられ保存され遺体写真救助隊同行した山岳ガイドらによってリークされ、サンティアゴ新聞El mercurio」は一面トップ生存者たち人肉食焦点合わせたセンセーショナルな記事発表した12月28日(木) 生存者たちは、モンテビデオ到着しステラ・マリス大学記者会見開催し72日間生存試練について説明した年月経て、この出来事に関する本2冊と映画2本と公式サイトができた。 まだ非常に衰弱していたロイ・アルレーはチリ残り数日後帰宅した救助隊員は、墜落地点から800メートルほど離れた地点死者遺体埋め、石を積み重ね中心に鉄製十字架建てた機体内に残っていた遺体残骸野次馬による損壊を防ぐために焼却処分された。

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鈴木紀夫」の記事における「1972年12月」の解説

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