ギリシャ独立戦争とは? わかりやすく解説

ギリシャ‐どくりつせんそう〔‐ドクリツセンサウ〕【ギリシャ独立戦争】

読み方:ぎりしゃどくりつせんそう

15世紀以来オスマン帝国の支配にあったギリシャの独立戦争1821年から1829年まで続いたが、ロシア・フランス・イギリスがギリシャ支援したため、オスマン帝国1829年アドリアノープル条約独立認めた


ギリシャ独立戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/09 01:23 UTC 版)

ギリシャ独立戦争(ギリシャどくりつせんそう、ギリシア語: Ελληνική Επανάσταση του 1821(1821年ギリシャ革命)、英語: Greek War of Independence)は、オスマン帝国からのギリシャの独立を巡り争われた戦争である。


注釈

  1. ^ この出典によると、1824年の方が80万ポンド(発行価格59%)、1825年の方が200万ポンド(発行価格56.5%)である。著者は「少なくともギリシア公債に関するものについては、払い込まれた額の僅かな部分しか目的地に、すなわちギリシア政府の手中に達しなかった。残りは発行業務を行っている金融業者の店によって主張された注文の形式で無駄に消費されたのである。そこで彼らは、ジブラルタルにも着くことのできなかったフリゲート艦や、使用しようと思うや否や爆発した火器を買わされたのであった」と分析している。
  2. ^ このギリシャ文庫は1805年以降、20年以上かけて出版されたが、ホメロスの時代からプトレマイオス朝までのギリシャ古典が集められていた。そして西欧で成功したギリシャ商人らがこれらを買い求めた[21]
  3. ^ イェニチェリの将校らのこと。当時、ベオグラード・パシャリクの実権を事実上、掌握していた[10]
  4. ^ この第一次露土戦争はロシアの勝利に終わり、キュチュク・カイナルジ条約が結ばれた[24]
  5. ^ 18世紀末、ギリシャでは「アガタンゲロスの予言」と「賢者レオの予言」という噂が広まっており、ともにロシアがギリシャを解放するという内容であった。「アガタンゲロスの予言」は正教徒司祭テオクリトス・ポリエイデスが編纂した汎正教主義の予言であり、一方で「賢者レオの予言」では1773年にオスマン帝国がコンスタンティノープルを追放されるとされていた[9]
  6. ^ 1790年以降、ヴロラベラトチャメリアテッサリアを勢力下としてヤニナ公国として統治していた[33]
  7. ^ 1799年にナポレオンによって禁じられた民族舞踊の名称。フランス革命に参加した過激派がこの名称を名乗っており、ギリシャの共和主義者らはこれを真似て自称した[36]
  8. ^ このイオニア七島連邦国には後のギリシャ初代大統領イオアニス・カポディストリアスも評議会の行政長官として参加していた。カポディストリアスは憲法制定にも参加して外交、商業、教育の責任者として働き、さらにイオニア諸島のレフカダ島へ侵攻したアリー・パシャとの戦いでは軍事司令官として戦っている[38]
  9. ^ カポディストリアスはこのイオニア七島連邦国での経験から自らがギリシャ人である意識を強く持ち、ギリシャ人にこだわらずバルカン半島の諸民族をオスマン帝国支配下から解放することまで考えていたという[22]
  10. ^ 柴『バルカン史』によればイスタンブールでの蜂起を含むバルカン半島全体で蜂起を行い、『祖国(ミテーラ・パトリーザ)』の解放を目指していたとされている[53]
  11. ^ フィリキ・エテリアはその後もセルビアと接触を持ち、セルビアとの共闘を目指したが、ミロシュはオスマン帝国と折り合いをつける方針を採用していたため、協力することはなかった[54]
  12. ^ 当時、カポディストリアスがフィリキ・エテリアの会員であるという噂が一人歩きしていたがこれは事実ではなかったが[56]、その一方でフィロムソス・エテリアという組織を発足させており、このフィロムソス・エテリアと混同されることがあった[57]。ただし、後のフィリキ・エテリア指導者アレクサンドロス・イプシランディスによればカポディストリアスはフィリキ・エテリアに参加したとされているが、カポディストリアス本人はこれを否定している[58]
  13. ^ カポディストリアスによればフィリキ・エテリアの計画は愚かしいもので失敗は必然と考えており、そのためギリシャはセルビア公国のような自立的な立場を目指すべきと考えていた[59][57]。そしてギリシャ独立への動きに関する情報を収集し、それらをオデッサ、モルドバ、ワラキアのギリシャ人指導者層やマヴロコルダトスらなどに注意を喚起した[57]
  14. ^ 当初、ペロポネソス半島での蜂起や[63]、セルビア、ブルガリア、ワラキア、モルドバ、エーゲ海島嶼部、マニ、メッセニア、トラキア、イピロス、モレアそしてロシアで革命を展開するという方針であったが[61]、イプシランディス参加後、ロシアの支援を受けた上で、ワラキア、モルドバ両公国へ解放者として侵攻して陽動作戦を行い、ペロポネソス半島を中心とするギリシャ本土に反乱を起こさせて共同戦線を張ることによりオスマン帝国に対応できなくさせ、さらにロシア王室から皇帝を選んでギリシャ帝国を建設するというものに変更されたが[64][54]、これは1812年のブカレスト条約でワラキア、モルドバ両公国にオスマン帝国の駐留が認められておらず、さらに両公国にはギリシャ人が多数、住んでいたこと、ペロポネソス半島では準備が整っていなかったことが関係している[65]
  15. ^ セルビア人、ブルガリア人らは自らの民族運動を整えつつあり、大部分のセルビア人、ブルガリア人らはギリシャが覇権を握ることに反感を持っていたが[59]、モルドバ、ワラキア両公国の公の息子らがフィリキ・エテリアを信奉していたことから支援が受けられると判断されていた[54]。また、一部のブルガリアの都市、スリヴェンプロヴディフガブロヴォなどではエテリアを支持する勢力が存在していたため、ブルガリアでも蜂起を計画していたが、あまりにも勢力が小さかったため、蜂起には加わらなかった[66]
  16. ^ 柴によればイプシランディスはアリー・パシャの打倒を目指していたとしている[71]
  17. ^ なお、アリー・パシャは持久戦を取ってオスマン帝国がフィリキ・エテリアの鎮圧に軍を割くことを期待していたが、オスマン帝国はアリー・パシャの包囲を解くことはなかった。そのため、アリー・パシャは1822年1月に裏切りによって殺害、アリー・パシャの勢力は消滅し、戦闘は終了したが、1年半渡ってオスマン帝国を釘付けたことから、アリー・パシャはギリシャ独立の影の功労者とも言える[73]
  18. ^ この部隊は砲13門、小銃125丁、サーベル99本、弾丸12万3300発、火薬1万1772キログラムと必要物資を持ってきた[76]
  19. ^ この資金調達で5万5千ルーブル、千フロリンが集められた[76]
  20. ^ このフィリキ・エテリアとヴラディミレスクの蜂起には第1次セルビア蜂起の参加者であるハジ・プロダン、ラーデ・ヴチニッチ、ステファン・ジヴコヴィッチ・ニシャリア、ステファン・ジヴコヴィッチ・テレマックらやロシア軍の元ブルガリア人部隊に所属していたハジ・ハミル、カプタン・コイチョらが参加していた[54]
  21. ^ トゥードア・ヴラディミレスクはワラキアの民兵隊の隊長。1814年より反乱の準備にとりかかっており、フィリキ・エテリアとも密命を結んでいた[79]
  22. ^ ヘッシュによればカポディストリアスもしくはロシア政府が直接、間接を問わずにフィリキ・エテリアの蜂起に関わった証拠はないとしている[80]
  23. ^ 本文に記載したのはクロッグによるもの。矢田によればギリシャ人、アルバニア人、セルビア人、ブルガリア人、モンテネグロ人の義勇兵がイプシランディスの元に集まり、ブカレストを占領したとしている[79]
  24. ^ 阿部によればこの密使がたとえオブレノヴィチの元にたどり着いたとしても当時、セルビア内部で内紛があったことから協力することはなかっただろうとしている[78]
  25. ^ なお、フィリキ・エテリアの蜂起の影響でワラキア、モルドバの両公国を牛耳っていたギリシャ人であるファナリオティスらがオスマン帝国によって粛清され、両公国の君主にはルーマニア人貴族が任命されるようになった[84][85]
  26. ^ ペロポネソス半島で発生した反乱についてはフィリキ・エテリアの蜂起に関係があったかどうかは異論が存在する。クロッグによれば、エテリアの蜂起とペロポネソス半島での蜂起の関係はどの程度まであったのかどうかはっきりしていないとしており[88]、柴[89]、周藤、村田らも同じ意見である[87]。しかしウッドハウスによれば、ペロポネソス半島にアレクサンドロス・イプシランディスの弟、ディミトリオス・イプシランディスが軍事指揮官として派遣されていることや、エテリアにおける他の指導者的立場のギリシャ人らがギリシャ各地に送り込まれるなどしたため、協調行動であったとする[90]。また、スボロノスによれば、ディケオス・パパフレサスや結社の他の会員が躊躇する有力者を屈服させた上でペロポネソス半島やギリシャ本土、エーゲ海島嶼部で革命を宣言したとする[75]。木戸によれば半島の有力者たちは日和見的態度を取っており、フィリキ・エテリアとオスマン帝国を両天秤にかけていた。しかし、オスマン帝国政府が事態を掌握するためにペロポネソス半島の有力者を招集しようとしたため、人質にされることを恐れた有力者たちは僧院に集まり、オスマン帝国への戦いを選んだとしている[91]。百瀬によればエテリアの組織網がペロポネソス半島に形成されており、エテリアが蜂起したという情報がペロポネソス半島での蜂起を導いたとしている[92]。一方でジョルジェヴィチ、フィッシャー・ガラティによればイプシランディスとフィリキ・エテリアが出した檄文を手に入れたギリシャ各地の教区長は1821年1月末にペロポネソス半島のヴォスティツァに集合、モルドバ・ワラキア両公国、セルビア、ロシアのモルドバ進攻が開始されたらそれに呼応して蜂起する計画を採用したとしている[86]
  27. ^ ただし、3月25日にギリシャ独立戦争が勃発したわけではなく、それ以前からイドラ、プサラ、スペッツァ、などで蜂起が始まっており、早い段階で有利な情勢になっていた[74]
  28. ^ この宣言は「カラマタ宣言」と呼ばれており、モレア蜂起を世界最初に宣言したものとなった。なお、この宣言はフィリキ・エテリアの文書ではなく、ペトロス・マヴロミハリスの署名が成されていた[95]
  29. ^ ロシア系ギリシャ人、一説によればビザンツ帝国コムネヌス朝の末裔とされる[98]
  30. ^ 1822年2月までオスマン帝国はアリー・パシャの殲滅を最大目標としていた[100]
  31. ^ ただし、バイロンは1824年1月にメソロンギに到着はしたがすぐに病死したため、戦いには参加していない[87]
  32. ^ 皮肉なことにグリゴリオス5世はアレクサンドロス・イプシランディス、ミハイル・スツォス、モルダヴィアのギリシャ反乱軍をオスマン帝国皇帝や聖なる神の意思に背くものとして幾度も非難する回勅を発していた[105]
  33. ^ 政府の中心を成していたのはペロポネソス半島のコジャバシ(土豪)であった[100]
  34. ^ 周藤・村田によれば1822年1月[112]
  35. ^ 憲法の起草にはネグリスとマヴロコルダトスらが携わった[100]
  36. ^ この時、大統領にペトロビー(Petrobey)が選出されたが数カ月で解任された[121]
  37. ^ 後にシリアが割譲されるが、これはペロポネソス半島での戦いやナヴァリノの開戦でうけた壊滅的打撃の代償としてムハンマド・アリーが要求したことによる。そしてそれまで良好であったマフムト2世とムハンマド・アリーの関係はこれ以降、悪化する[125]
  38. ^ メッテルニヒによればギリシャでの出来事は暴動でヨーロッパの諸列強を分断するもので、ロシア・オーストリア間の間に楔を打ち込むものだとしている[132]
  39. ^ この時、親フランス派、親ロシア派も動きを見せたが、これは実を結ばなかった[140]
  40. ^ イギリスが単独で介入するとイギリス対オスマン帝国の図式が出来上がり、ヨーロッパ中を戦争に巻き込む可能性があった。そしてこの戦争が発生した場合、ギリシャが独立する利益を失うことをカニングは予想していた[140]
  41. ^ ただし、藤井によればアレクサンドル1世はオーストリアとの協議の結果、1822年8月1日にメッテルニヒとの協力は不可能であると宣言したとある[136]
  42. ^ ロシアはこの時、バルカン半島の正当な統治者はあくまでもオスマン帝国であると考えていたことから完全独立は否定しており、オスマン帝国宗主権内での自治国化を与えることを考えていた[142]
  43. ^ これはギリシャ暫定政府大統領マヴロコルダトスがストラッドフォード・カニングと会談して、非公式に受けれいたものである[146]
  44. ^ ヨーロッパの王家のいずれにも血統が繋がらないサグセン=コーブルク家もしくはザクセン公をギリシャ国王とすることを計画していた[136]
  45. ^ さほど力は強くなかった[136]
  46. ^ オルレアン家から国王を迎えてイオアニス・カポディストリアスを指導者とすることを計画していた[136]
  47. ^ これは宣戦布告をせずに戦いに至ったためであり、オーストリアのメッテルニヒも怒りを示している[145]
  48. ^ 周藤、村田によれば1827年3月[149]
  49. ^ 当時、休職中ではあったがロシア外務次官であったカポディストリアスが選ばれたのはカポディストリアスがウィーン会議に参加したように経験豊富な外交官であり、また、イギリス、フランス、ロシアと対等に交渉できる人物として選出された[149]
  50. ^ カポディストリアスによればギリシャの独立はあくまでも列強国の妥協による「棚からぼたもち」的なものであり、成熟したギリシャ人らが自ら進んで得たものではないとしていた。そのため、ギリシャが本当の独立を得るには自ら強力な指導力を発揮してギリシャ人の教育を行わなければならないと考えていた[151]
  51. ^ カポディストリアスの意思背景には各種異論が存在する。スロボノスによれば、ロシア党のコロコトロニスの協力を得た上でギリシャをロシア皇帝の意図に沿わせることを意図していたとしている[153]。しかし、周藤・村田によればイギリス、フランスらは当初、カポディストリアスに対してロシアの手先というイメージを持っていたが、後にこのイメージは払拭されたとしている[149]。また、ウッドハウスによれば、カポディストリアスはロシアの代理人としてではなく、一人のギリシャ人として考え、行動したとしている[155]
  52. ^ モルドバ・ワラキア両公国とセルビアにおけるロシアの特権についての履行が規定されていた[158][139]
  53. ^ カポディストリアスは大司教を「キリスト教徒のトルコ人」、軍指導者を「追い剥ぎ」、知識階級を「たわけ者」、ファナリオティスを「悪魔の子供」とこき下ろしていた[165]
  54. ^ スロボノスや桜井によれば、カポディストリアスはギリシャ人国家の設立に真剣に取り組んでいたが、ロシア寄りの政策をとっているとしてイギリス、フランスが不信感を抱いていたため、反カポディストリアス派と手を組んで支援したとしている[168][166]
  55. ^ この決定はあくまでもイギリス、フランス、ロシアの間で成されたもので、バイエルン王国を勢力圏とするオーストリアは完全に蚊帳の外に置かれた[145]
  56. ^ たとえば1791年に出版されたフィリピディスとコンスタンダスによる著作『新地理』によるとハプスブルク帝国内にはオスマン帝国出身のギリシャ人が約40万人居たとされている。しかし、これはバルカン半島の正教徒商人全てをギリシャ人と見做した可能性が指摘されている[176]

脚注

  1. ^ A.アンドレァデス 『イングランド銀行史』 日本評論社 1971年 p.293.[# 1]
  2. ^ 柴(1998)、pp.163-166
  3. ^ カステラン (1994)、pp.11-12
  4. ^ カステラン (1994)、p.12
  5. ^ a b 桜井(2005)、p.269
  6. ^ a b c 百瀬他 (2001)、p.52
  7. ^ 百瀬他 (2001)、p.44
  8. ^ 木戸(1977)、p.79
  9. ^ a b c 周藤、村田(2000)、p.230
  10. ^ a b 百瀬他 (2001)、p.50
  11. ^ 桜井(2005)、pp.269-270
  12. ^ 桜井(2005)、p.270
  13. ^ 木戸(1977)、p.57
  14. ^ 木戸(1977)、pp.57-58
  15. ^ a b 木戸(1977)、p.58
  16. ^ 木戸(1977)、p.59
  17. ^ 桜井(2005)、p.272
  18. ^ 桜井(2005)、p.273
  19. ^ a b c 桜井(2005)、pp.273-274
  20. ^ 周藤、村田(2000)、pp.228-229
  21. ^ 桜井(2005)、p.274
  22. ^ a b c 周藤、村田(2000)、p.228
  23. ^ a b スボロノス(1988)、p.41
  24. ^ a b 木戸(1977)、p.54
  25. ^ 柴(1996)、p.39
  26. ^ 柴(2001)、pp.60-61
  27. ^ 百瀬他 (2001)、pp.50-51
  28. ^ 柴(1996)、p.40
  29. ^ 柴(2001)、p.61
  30. ^ クロッグ(2004)、p.29
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  35. ^ スボロノス(1988)、pp.43-44
  36. ^ a b スボロノス(1988)、p.146
  37. ^ スボロノス(1988)、pp.44-45
  38. ^ a b 周藤、村田(2000)、p.227
  39. ^ クロッグ(2004)、p.30
  40. ^ 木戸(1977)、pp.56-57
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ギリシャ独立戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 07:11 UTC 版)

シロス島」の記事における「ギリシャ独立戦争」の解説

そのきわめて重要な地理的位置から、シロス島は海の要衝として知られるようになった。その上特殊な社会的宗教的制度的な条件加わってシロス島1821年はじまったギリシャ独立戦争において中立表明しギリシャ反乱軍参加することはなかった。このため革命期に安全な避難先として、アナトリア半島ヒオス島スペツェス島プサラ島、アイヴァリ、スミルナキドニアカソス島などから多く難民押し寄せた

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ギリシャ独立戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 21:37 UTC 版)

パトラ」の記事における「ギリシャ独立戦争」の解説

パトラはギリシャ独立戦争(1821年1829年)で重要な役割果たしたパトラ当時ペロポネソス最大の都市で、全アカイアマニ半島司る最初革命首都置かれた。パトラ人口1.8万人2/3以上がギリシャ人で、商人中産階級少なかったパトラ商業的重要性から、ヨーロッパ中から領事来ていた。ロシア領事のヴラソポウロスも友愛会所属していた。オスマン帝国テペデレンリ・アリー・パシャとの戦争軍資金を得る為、パトラ重税課したが、パトラはこれを拒否した。その為、パトラ雰囲気1821年2月中旬から緊張し始めた同時期、友愛会パトラ反乱計画し弾薬資金作戦準備していた。オディッセアス・アンドロウツォスはパトラ隠れ、ヤニス・マクリヤニスは来る反乱指導者に会う為にパトラ訪れた。これらの動き怪しんだトルコ人は、2月28日所有物要塞運び込み3月18日には家族一緒に要塞入った3月23日トルコ人市街地散発的に攻撃仕掛け区画幾つか破壊した。自由戦士パナギオティス・カラツァス率い革命軍は銃を用いてトルコ人要塞押し返した。マクリヤニスは後に回顧録でこう語っている。 Σε δυο ημέρες χτύπησε ντουφέκι ’στην Πάτρα. Οι Tούρκοι κάμαν κατά το κάστρο και οι Ρωμαίγοι την θάλασσα. 「パトラでは2日後銃撃戦始まったトゥルク人要塞包囲しギリシャ人海岸確保した。」 3月25日革命軍パトラのアギオス・ゲオルギオス広場革命宣言行った。この日が独立戦争の公式の開始になっている友愛会のゲルマノスはパトラ戻り、自由戦士祝福した3月26日革命軍各国領事革命理由書簡説明した。しかし、ユスフ・パシャ率いる主に騎兵からなる300人のトゥルク兵は、イオアニアからエウボエアに進路変更し4月3日パトラ上陸した援軍得た城のトゥルク兵は都市破壊略奪した革命軍好意的なスウェーデンプロイセンロシアフランス外国領事パトラから脱出した中立保ちギリシャ人領事館入れなかったイギリス領事のグリーンと、フランス領事のプクヴィルは、革命恐ろしかった記している。装備練度も低い革命軍は強い抵抗出来なかった。地元靴職人のカラツァスは、トゥルク人住居地区での攻撃妨害した最終的に、城の外のトゥルク人1828年フランス兵除去された。

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ギリシャ独立戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 14:14 UTC 版)

サントッレ・ディ・サンタローザ」の記事における「ギリシャ独立戦争」の解説

サントッレ・ディ・サンタローザ今回ピエモンテ革命首謀者ともいえる存在であり、失敗した以上逮捕されれば死刑免れなかった。そのことからマルセイユリヨン経由してスイス亡命しジュネーヴでは他の亡命したイタリア人愛国者ルイージ・オルナート(イタリア語版)やフェルディナンド・ダル・ポッツォ(イタリア語版)と交流持ったその後ローザンヌパリ経由してロンドンへ移り住んだロンドンではジョバンニ・ベルシェウーゴ・フォスコロジャチント・プロヴァナなどイタリア人愛国者との交流維持し革命への熱意を絶やさなかった。また、フランス滞在していた間にはピエモンテ革命叙事的に記したピエモンテ革命』(『La révolution piémontaise』)を出版。これがフランス文学者の目に留まり、特にヴィクトル・クザンとの友好関係築いてこれは生涯途絶える事が無かった。 しかし1824年になると、オーストリア帝国支配されるイタリア同様にオスマン帝国という大国支配下にあったギリシャ独立機運高まり暫定政権樹立されるなどしていた。サントッレ・ディ・サンタローザはそれに共鳴し安全なイングランド捨ててギリシャに渡る。そしてギリシャ軍入隊して1825年には増援部隊100名の指揮官として1825年スファクテリアの戦いギリシア語版)に参戦し何らかの形でそこで戦場散った

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ギリシャ独立戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 13:20 UTC 版)

ムハンマド・アリー」の記事における「ギリシャ独立戦争」の解説

「ギリシャ独立戦争」も参照 1822年オスマン帝国からの要請によりギリシャ独立戦争に参戦。もともとムハンマド・アリーは、カイロアレクサンドリア革命組織結成されアレクサンドリアから義勇兵出港するのを黙認するなど反乱厳しく対処していたわけではなかったが、アラビア遠征続きオスマン帝国の「積極的で従順な奉仕者たることを強いられ」る恰好となったエジプト軍1824年クレタ島カソス島カルパソス島制圧次いでギリシア本土制圧命じられたが、この頃からムハンマド・アリーにはただ単にオスマン帝国命令に従うのではなく、この戦争近代軍隊ニザーム・ジェディトの実力試し国際社会イスラム社会における存在感高め好機ととらえるようになったムハンマド・アリーにはさらに、モレア地方ペロポネソス半島)を領有し東地中海における貿易獲得しようという目論みを抱くようにもなった。1824年7月アレクサンドリアから海路モレア地方上陸目指しエジプト軍は、反乱軍艦隊苦戦しながらも翌1825年1月上陸成功するイブラーヒーム・パシャ指揮のもと陸上戦優位に進めナヴァリノ(現ピュロス付近)、トリポリツァミソロンギアテネなどを制圧したムハンマド・アリーは単に武力用いて反乱鎮圧するではなく外交駆使して自国有利な状況作り出そうとしていた。1826年9月ムハンマド・アリーアレクサンドリア駐在イギリス総領事ヘンリー・ソールト(英語版)に対し海軍力増強アラビア方面への勢力拡大認めることと引き換えギリシアからの撤退打診した。この時、ソールトムハンマド・アリー真意を以下のように推し量っている。 ムハンマド・アリー心中で、かれの独立について総括的保障イギリス政府から得、トルコ政府対抗できるうになることを望んでいるが、直接それに言及することを避けているように思えた。 — (岩永 1984, pp. 9192) イギリスとの交渉際しムハンマド・アリーは、ギリシアでの軍事行動抑制しオスマン帝国反乱鎮圧支持するオーストリア苛立たせた。オーストリアムハンマド・アリーのもとに使者送りイギリスエジプト対し好意抱いてはおらず弱体化望んでいると説いたが、ムハンマド・アリーイギリスとの関係重視する姿勢を崩さなかった。オスマン帝国ムハンマド・アリー対し戦争の全指揮権委ねることを打診したムハンマド・アリーはこれを辞退したオスマン帝国側がかつてのエジプト総督ムハンマド・アリーによって追放された、ムハンマド・アリー仇敵ともいえるヒュスレヴ・パシャ(フスロー・パシャ)をオスマン帝国海軍司令官から解任した上で改め要請すると、受け入れざるを得なくなった1827年7月6日、イギリス・フランス・ロシアは「休戦もたらすために共同努力する」旨の協定を結び、オスマン帝国側が停戦要求応じない場合海上封鎖行いエジプト軍補給路を断つことで合意したムハンマド・アリー軍事行動開始引き伸ばしイギリスとの交渉続けたが、期待反し1827年8月8日イギリス側ムハンマド・アリー要求応えることなくギリシア軍隊派遣し強力な干渉を行うことを予告した岩永博は、イギリスムハンマド・アリー期待裏切った原因として、ギリシャ独立戦争においてエジプト軍が行った虐殺捕虜虐待対す非難西欧社会湧き起こっていたことを指摘している。 イギリスとの交渉決裂する2日前の8月6日これ以上出兵を引き延ばせないと判断したムハンマド・アリーアレクサンドリアから海軍出撃させた。これに対しイギリス・フランス海軍休戦求め示威行動開始し10月13日にはロシア艦隊合流した10月20日ナヴァリノ湾においてオスマン帝国海軍発砲したのをきっかけ戦闘となり、オスマン帝国およびエジプト海軍艦船の4分の3を失う大敗喫したナヴァリノの海戦)。この戦いでエジプト海軍壊滅し、さらにその後行われた海上封鎖により補給路を断たれたことで陸軍半分飢餓失った。ギリシャ独立戦争参戦エジプト多大な社会的経済的損失もたらすこととなったムハンマド・アリーは、事態楽観視した挙句3か国の介入対し狂信的短絡的」に反発した「豚頭のスルタン」と「驢馬のような宰相」の愚鈍さが敗戦招いた認識しオスマン帝国からの完全な独立決意する至った

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ギリシャ独立戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:59 UTC 版)

メソロンギ」の記事における「ギリシャ独立戦争」の解説

1770年オルロフ反乱では、メソロンギ艦隊敗北し、町はオスマン帝国占領された。また、1821年5月20日にはメソロンギオスマン帝国反逆し、ギリシャ独立戦争の間、町はギリシャ人反乱軍にとっての主要な要塞となった1822年にはオスマン帝国軍に町は包囲されたが、守り切ることに成功した。しかし1825年4月15日には、30,000人を率いたレシド・メフメト・パシャと、ムハンマド・アリー息子10,000人を率いたイブラヒム・パシャによって2度目の包囲開始された。1年間包囲の末、飢餓直面するようになったために、1826年4月10日夜にメソロンギ市民包囲された町から脱出することを試みたその時メソロンギ市民10,500人であり、その中で装備した者はわずか3,500であった。しかし計画密告され、脱出成功できた者はほとんどいなかった。 ヨーロッパ諸国1826年事件残虐さを非難したドラクロワによる『ミソロンギ廃墟に立つギリシア』が描かれたのもこの時である。メソロンギ市民のこの英雄的姿勢と、その後のトルコ・エジプト連合軍によるメソロンギ市民虐殺考慮して、後にメソロンギの町は「ヒエラ・ポリス聖なる町)」という名誉的な称号授与された。 イギリス有名な詩人で、親ギリシアであったジョージ・ゴードン・バイロンは、ギリシャ人反乱軍支援したが、1824年メソロンギの地で亡くなった。現在町には、彼の心臓収められ慰霊碑と、彼の彫像安置されている。

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ギリシャ独立戦争

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イオアニス・コレティス」の記事における「ギリシャ独立戦争」の解説

エピダヴロス開催され第一回ギリシャ国民会議に、彼はイピロス地方代表として参加した1822年には内務大臣の職に就いた。アストロスでの第2回国民会議以降ではエヴィア島地方官任命されトルコ軍との戦闘従事した。 彼は中央ギリシャにおける反乱軍率いていたルメリ党に属し1824年、クンドゥリオティスを元首とすることに反対するテオドロス・コロコトロニス率いペロポネソス半島反乱軍対決、これを撃破してコロコトロニスを捕虜としてイドラ投獄した第3回国民議会では、トルコ軍物資集積されていたペロポネソス半島の町を攻撃するためにテッサリアマケドニア地方から兵士移送する任務についたイオアニス・カポディストリアス1828年ナフプリオ到着すると彼はサモス島総督任命された。翌年には国防大臣となっている。カポディストリアス暗殺後1832年まで内戦続き、彼は再びルメリ党の指導者となった。彼はテオドロス・コロコトロニスとアウグスティノス・カポディストリアスとの3人で共同統治試みたが、対立深まり失敗終わった

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