クレタ島での状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:00 UTC 版)
「ギリシャ独立戦争」の記事における「クレタ島での状況」の解説
ペロポネソス半島で蜂起が発生するとクレタ島ではペロポネソス半島へ送る寄付が募られ、武装蜂起準備が行われたが、これに対してムスリムらはキッサモスの司教を殺害するなど数十名の正教徒、大司教、司祭などが殺害された。そのため、正教徒住民らはスファキアを中心に蜂起したが、オスマン帝国が有利な状況であった。そこでペロポネソス半島よりミハイル・コムネソス=アフェンドゥリエフがクレタ島へ向かい蜂起の統一が行われた。 1822年、蜂起はクレタ島全域に及び、ムスリムたちもカンディア、レスモ、ハニアなどの要塞に撤退せざるをえなくなり、蜂起側有利な状況になっていた。そして5月、アルメニウスに集まった蜂起軍はペロポネソス半島との統合を決議したが、これはムハンマド・アリーの介入により失敗に終わった。
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