クレタ島の騒乱
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「東方問題」および「メガリ・イデア」も参照 エジプト軍が撤収した1841年にクレタ島のキリスト教徒は蜂起した。これは失敗したが、キリスト教徒、とりわけ「ギリシア籍クレタ人」たちはギリシア王国とのエノシス(統合)を目指して蜂起を繰り返した。これはメガリ・イデア(大ギリシア主義)と呼ばれるギリシア王国の拡張主義とも呼応していた。ムスタファ・ナーイリ・パシャが去った後の1850年代、ロシア帝国がワラキアとモルドヴァに侵攻してクリミア戦争が勃発すると、1854年にイギリス・フランス・サルディニアがオスマン帝国を助けて参戦し、ロシアを撃退した。この結果オスマン帝国政府に対するイギリスとフランスの影響力は増大し、その要望に応えて1856年に非ムスリムのオスマン帝国臣民の待遇改善を約束した改革勅令が発布された。帝国内ではこの改革勅令の実現を求めて各地で騒乱が発生し、クレタ島でも改革勅令の精神に則って新たな土地法が制定されていたが、既存の有力者たちの強い抵抗にあって有名無実のものとなっており、1858年には蜂起が発生した。 オスマン帝国の混乱を狙うロシアは、ブルガリアなどオスマン帝国領内での反乱を煽っていたが、クレタ島でも蜂起を扇動した。1866年4月にクレタ島の住民たちはオマロスで当時の総督に各種の内政の不満の改善を求める嘆願書を提出したが、その際にエピトロピ(中央委員会)と呼ばれる代表機関を組織した。オスマン帝国政府の回答はなしのつぶてであり、既に帝国政府が十分にクレタ島を優遇しており、外国勢力が混乱を煽っていることを強調していた。1866年8月にはエピトロピは帝国政府に対する抵抗姿勢をはっきりさせ、家族ぐるみでスファキア地方に移動して抵抗をはじめた。 真面目な人びとの全部がクレタ領有をエジプトにとり有害だと考えていることを付加しておきたい。東方問題が開かれても、エジプトは自分のことだけに専念している限り尊敬を払われよう。しかし、クレタを媒介にしてギリシア人にまきこまれるなら、エジプトは好むと好まざるとにかかわらず混乱のなかにひきずりこまれるだろう。私はヨーロッパ世論を報告したにすぎない。 ムハンマド・アリー朝の外交官ブーグース・ヌーバールの報告 私はひとつの方策しか見い出せない。それはオスマン政府に圧力をかけてクレタを、オスマン帝国の宗主権下にあるサモスやレバノンのような一種の半独立政体にすることだ。私はクレタ島のエジプト帰属がワーリー殿下のお考えではないと信じる。しかし、人びとがクレタをエジプトに贈る時には、それはエジプトがしばらく後に思わしくない事件にまきこまれるおそれがある、不幸な災いになろう。 ムハンマド・アリー朝の外交官ブーグース・ヌーバールの報告 この1866年のクレタ島の蜂起(クレタ革命とも)は大規模なものとなり、鎮圧のためにオスマン帝国が軍を派遣した。兵力が不足していたため、ムハンマド・アリー朝のエジプト総督(ワーリー)のイスマーイール・パシャにも出兵が求められた。イスマーイール・パシャはエジプト軍をクレタ島へ送ったが、自身が近代国家を率いていることを自任しており、オスマン帝国よりもエジプトの方が文明的かつ人道的であることを誇っていた。彼は帝国とは異なる独自の政策を追求し、クレタ島のオスマン帝国軍とエジプト軍は指揮権の所在や作戦を巡って互いに反目した。クレタ島の住民感情がエジプトに対して良好であるという現地エジプト軍司令官シャーヒーン・キンジ・パシャ(Šāhin Kinj Paša)の見通しもあり、イスマーイール・パシャはクレタ島をムハンマド・アリー朝に併合する野心を抱いてもいたと考えられる。少なくともヨーロッパ列強は彼の野心を強く疑っていた。イスマーイール・パシャはクレタ島から得る事が期待できる歳入と、この島を維持するための維持費とを比較して、大幅な赤字と予測されることから、公式にはクレタ島を支配する意思がないことを強調していた。しかし、1866年夏にはオスマン帝国がイスマーイール・パシャにクレタ島の行政権をゆだねたという噂がヨーロッパ中に広まっていた。 1866年11月のアルカディ修道院でのオスマン帝国軍・エジプト軍との激戦でエピトロピは敗北したが、そこで生じた婦女子を含む犠牲はヨーロッパの世論を刺激し、これに押された各国はクレタ問題への本格的な介入を考えなければならなくなった。1866年の年末にはイギリスを始め各国が外交的介入を開始した。イギリスはエジプトのクレタ領有の可能性に強い難色を示し、ロシア、ギリシアも同様であった。フランスはエジプトに親和的であったが、イギリスとの対立を引き起こしてまでこれを支援する意思をもたなかった。クレタ島の将来についての見通しが立たないことを理解したイスマーイール・パシャはクレタ問題に対する関心を失い、エジプト軍を撤退させる可能性をちらつかせつつオスマン帝国から利益を得る道を選んだ。オスマン帝国から譲歩を引き出し終えると、エジプト軍は1867年に段階的な撤兵を初め、10月までに完全にクレタ島から撤退した。同年にはオスマン帝国がムスリムとキリスト教徒の平等を実現するための基本法を発布したが、反乱鎮圧には効果がなかった。 ギリシア世論はクレタ島の統合を熱望しており、一方のギリシア王国もクレタ島の騒乱を座視することはできなかった。イギリスがヨーロッパ諸国に不干渉を求めたため、ギリシア政府は公式には介入しなかったが、エピトロピに物資を補給し、ギリシア陸軍の将校を政府黙認の下で義勇兵として派遣していた。ギリシア首相アレクサンドロス・クームンデゥロス(英語版)が対オスマン帝国の共同軍事行動をとるために諸外国と調整を行ったが、国王ゲオルギオス1世は列強の意向に従う姿勢を明確にし、クームンデゥロス内閣を総辞職に追い込んだ。ギリシアは先だって統合されていたイオニア諸島で統治能力の欠如を露呈しており、イギリスは東地中海の安定のために重要なクレタ島の統治をギリシアに行わせることに反対した。 結局、プロイセン王国首相オットー・フォン・ビスマルクが主導した1869年のパリ会議において、ギリシア代表不在のまま、クレタ島の現状維持路線が決定され、ギリシア政府には密航者の取り締まりや越境者の武装化阻止が要求された。ギリシア政府にはこれを拒否することはできず、またオスマン帝国は1867年に発布された基本法に基づく特権地区としてクレタ島を扱うことが定められた。 こうして1866年から続いていた反乱は終息したが、その後もクレタ島の状況は変わらず、基本法も有効に機能しなかったため、1878年には別の反乱が発生した。この問題は露土戦争 (1877年-1878年)の戦後処理のために開催されていたベルリン会議でも議題にあがった。ここでギリシアはクレタ島に対する権利を主張したが相手にされず、オスマン帝国もロシアに対する敗北のために何ら意向を通す事はできず、クレタ島についてはイギリスの仲介でハレパ協定(英語版)が締結された。この協定は行政機関へのキリスト教徒の参加拡大とギリシア語の出版活動の自由などを保証するものであり、スルタンはギリシア人キリスト教徒の総督を任命しさえした。
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