クレタ島の騒乱とは? わかりやすく解説

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クレタ島の騒乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:50 UTC 版)

クレタ島の歴史」の記事における「クレタ島の騒乱」の解説

東方問題」および「メガリ・イデア」も参照 エジプト軍撤収した1841年クレタ島キリスト教徒蜂起した。これは失敗したが、キリスト教徒とりわけギリシアクレタ人」たちはギリシア王国とのエノシス統合)を目指し蜂起繰り返した。これはメガリ・イデア(大ギリシア主義)と呼ばれるギリシア王国拡張主義とも呼応していた。ムスタファ・ナーイリ・パシャが去った後の1850年代ロシア帝国ワラキアモルドヴァ侵攻しクリミア戦争勃発すると、1854年にイギリス・フランス・サルディニアがオスマン帝国助けて参戦しロシア撃退した。この結果オスマン帝国政府対すイギリスフランスの影響力は増大し、その要望応えて1856年に非ムスリムオスマン帝国臣民待遇改善約束した改革勅令発布された。帝国内ではこの改革勅令実現求めて各地騒乱発生しクレタ島でも改革勅令精神則って新たな土地法が制定されていたが、既存有力者たちの強い抵抗にあって有名無実のものとなっており、1858年には蜂起発生したオスマン帝国混乱を狙うロシアは、ブルガリアなどオスマン帝国領内での反乱を煽っていたが、クレタ島でも蜂起扇動した1866年4月クレタ島住民たちはオマロスで当時総督各種内政の不満の改善求め嘆願書提出したが、その際にエピトロピ(中央委員会)と呼ばれる代表機関組織したオスマン帝国政府回答なしのつぶてであり、既に帝国政府十分にクレタ島優遇しており、外国勢力混乱を煽っていることを強調していた。1866年8月にはエピトロピは帝国政府対す抵抗姿勢をはっきりさせ、家族ぐるみでスファキア地方移動して抵抗はじめた真面目な人びと全部クレタ領有エジプトにとり有害だ考えていることを付加しておきたい東方問題開かれても、エジプト自分のことだけに専念している限り尊敬払われよう。しかし、クレタ媒介にしてギリシア人まきこまれるなら、エジプト好むと好まざるとにかかわらず混乱のなかにひきずりこまれるだろう。私はヨーロッパ世論報告したにすぎないムハンマド・アリー朝外交官ブーグース・ヌーバールの報告 私はひとつの方策しか見い出せない。それはオスマン政府圧力をかけてクレタを、オスマン帝国宗主権下にあるサモスレバノンのような一種半独立政体にすることだ。私はクレタ島エジプト帰属ワーリー殿下のお考えではないと信じる。しかし、人びとクレタエジプトに贈る時には、それはエジプトがしばらく後に思わしくない事件まきこまれるおそれがある不幸な災いになろう。 ムハンマド・アリー朝外交官ブーグース・ヌーバールの報告 この1866年クレタ島蜂起クレタ革命とも)は大規模なものとなり、鎮圧のためにオスマン帝国が軍を派遣した兵力不足していたため、ムハンマド・アリー朝エジプト総督ワーリー)のイスマーイール・パシャにも出兵求められた。イスマーイール・パシャエジプト軍クレタ島送ったが、自身近代国家率いていることを自任しており、オスマン帝国よりもエジプトの方が文明的かつ人道的であることを誇っていた。彼は帝国とは異なる独自の政策追求しクレタ島オスマン帝国軍エジプト軍指揮権所在作戦巡って互いに反目した。クレタ島住民感情エジプトに対して良好であるという現地エジプト軍司令官シャーヒーン・キンジ・パシャ(Šāhin Kinj Paša)の見通しもあり、イスマーイール・パシャクレタ島ムハンマド・アリー朝併合する野心抱いてもいたと考えられる少なくともヨーロッパ列強彼の野心強く疑っていた。イスマーイール・パシャクレタ島から得る事が期待できる歳入と、この島を維持するための維持費とを比較して大幅な赤字予測されることから、公式にはクレタ島支配する意思がないことを強調していた。しかし、1866年夏にはオスマン帝国イスマーイール・パシャクレタ島行政権ゆだねたという噂がヨーロッパ中に広まっていた。 1866年11月アルカディ修道院でのオスマン帝国軍エジプト軍との激戦でエピトロピは敗北したが、そこで生じた婦女子を含む犠牲ヨーロッパ世論刺激し、これに押され各国クレタ問題への本格的な介入考えなければならなくなった1866年年末にはイギリス始め各国外交的介入開始したイギリスエジプトクレタ領有可能性に強い難色示しロシアギリシアも同様であったフランスエジプト親和的であったが、イギリスとの対立引き起こしてまでこれを支援する意思をもたなかった。クレタ島将来についての見通し立たないことを理解したイスマーイール・パシャクレタ問題対す関心失いエジプト軍撤退させる可能性ちらつかせつつオスマン帝国から利益を得る道を選んだオスマン帝国から譲歩引き出し終えると、エジプト軍1867年段階的な撤兵初め10月までに完全にクレタ島から撤退した同年にはオスマン帝国ムスリムキリスト教徒の平等を実現するための基本法発布したが、反乱鎮圧には効果がなかった。 ギリシア世論クレタ島統合熱望しており、一方ギリシア王国もクレタ島の騒乱を座視することはできなかった。イギリスヨーロッパ諸国不干渉求めたため、ギリシア政府は公式には介入しなかったが、エピトロピに物資補給しギリシア陸軍将校政府黙認の下で義勇兵として派遣していた。ギリシア首相アレクサンドロス・クームンデゥロス(英語版)が対オスマン帝国共同軍事行動をとるために諸外国調整行ったが、国王ゲオルギオス1世列強意向に従う姿勢明確にし、クームンデゥロス内閣総辞職追い込んだギリシアは先だって統合されていたイオニア諸島統治能力欠如露呈しており、イギリス東地中海安定のために重要なクレタ島統治ギリシア行わせることに反対した。 結局プロイセン王国首相オットー・フォン・ビスマルク主導した1869年パリ会議において、ギリシア代表不在のまま、クレタ島現状維持路線決定されギリシア政府には密航者取り締まり越境者武装化阻止要求された。ギリシア政府にはこれを拒否することはできず、またオスマン帝国1867年発布され基本法に基づく特権地区としてクレタ島を扱うことが定められた。 こうして1866年から続いていた反乱終息したが、その後クレタ島状況変わらず基本法有効に機能しなかったため、1878年には別の反乱発生した。この問題露土戦争 (1877年-1878年)戦後処理のために開催されていたベルリン会議でも議題にあがった。ここでギリシアクレタ島対す権利主張した相手にされず、オスマン帝国ロシア対す敗北のために何ら意向を通す事はできず、クレタ島についてはイギリス仲介でハレパ協定英語版)が締結された。この協定行政機関へのキリスト教徒参加拡大ギリシア語出版活動自由などを保証するものであり、スルタンギリシア人キリスト教徒総督任命しさえした。

※この「クレタ島の騒乱」の解説は、「クレタ島の歴史」の解説の一部です。
「クレタ島の騒乱」を含む「クレタ島の歴史」の記事については、「クレタ島の歴史」の概要を参照ください。

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