エノシス(統合)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:50 UTC 版)
「バルカン戦争」も参照 1889年にオスマン帝国がハレパ協定の条項の多くを停止させ、1895年にキリスト教徒の総督にかわってムスリムの総督がクレタ島に赴任すると、ハニアで暴動が起こった。オスマン帝国は慌ててハレパ協定を復活させキリスト教徒アレクサンドロス・カラテオドリ・パシャ(英語版)を新たなクレタ総督に任命したが、ムスリムの役人や軍人たちはこの新任総督に従うことを拒否し、キリスト教徒に対する虐殺事件を引き起こした。翌1896年には大規模な反乱が勃発した。ギリシアでは「愛国的」世論が巻き起こり、ギリシア政府はあらゆる意味で準備が整っていなかったにもかかわらず、オスマン帝国との戦争を決断した。1897年2月にはクレタ島の占領を目論んで軍が送り込まれた。。だが、ヨーロッパ列強はオスマン帝国の解体に繋がりかねない領土変更を承認せず、ギリシアのクレタ領有を拒否した。イギリス・フランス・ロシア・イタリア・オーストリア・ドイツが艦隊を派遣してクレタ島を封鎖し、1897年3月2日にはギリシア政府にクレタ島からの撤退を要求する最後通牒が突き付けられた。ギリシアは同時に大陸側のギリシア・オスマン帝国国境でも侵攻を開始したが、短期間のうちに敗退した。このため、ギリシアは要求を呑んでクレタ島から撤退せざるを得なくなった。 艦隊を派遣したヨーロッパ列強諸国は数カ月の間クレタ島を派遣艦隊の提督からなる委員会に統治させた。しかし統治は順調でなく、また各国の足並みもそろわなかったため、イギリスの発案の下でクレタ島を「自治政権(英語版)」の下に置くことが決定された。これはオスマン帝国スルタンの宗主権の下で、ギリシアの王子ゲオルギオスを総督とするという案であった。しかしスルタン・アブデュルハミト2世は彼を総督として承認することを拒否したため、列強各国は1898年にゲオルギオス王子を高等弁務官という名称で任期3年の島の統治者に任命し、任期中にスルタンの承認を得ることとした。 これはクレタ島のキリスト教徒たちに実質的にギリシアへの統合への道筋を開いたものと受け止められたため、クレタ島は急速に平静を取り戻した。しかし、1900年には列強が統合を拒否し、更に高等弁務官ゲオルギオスが統合への具体的な努力をしていないと見た司法顧問エレフテリオス・ヴェニゼロスが、ゲオルギオスと激しく対立してすぐに政治危機が再燃した。1905年、ヴェニゼロスはゲオルギオスのクレタ政府に対して革命を宣言し、側近の支持を得られなかったゲオルギオスは職を追われた。列強は現状維持方針を維持していたため、新たな高等弁務官として元ギリシア議会議長アレクサンドロス・ザイミス(英語版)を立てた。 1908年、オスマン帝国のアブドゥルハミト2世に対して青年トルコ人革命が発生すると、これを奇貨としたヴェニゼロスは仲間と共にクーデターを起こし、10月12日にギリシアとの統合を宣言した。列強各国は既にクレタ島から撤退する方針を決定しており、これを阻止しようとはしなかったが、ギリシア政府に統合を認めないよう圧力をかけ続けた。ギリシア政府は国内の民族主義的高揚と列強各国およびオスマン帝国との板挟みにあって狼狽し、クレタ島の将来を列強の決定に委ねるという決定に逃げ道を求めたが、ギリシア国民の怒りに迎えられた。1909年には軍の離反によってギリシア政府が倒れ、事態打開のためにクレタ島からヴェニゼロスが召喚されてギリシア首相に就任した。 首相となった後のヴェニゼロスは強力な政治的手腕を発揮しギリシア政界で権力を確立する一方、クレタ島の領有問題に対してはむしろ消極的な姿勢を示した。これは十分な準備が整わないギリシア王国がクレタ島を巡る戦争に巻き込まれるのを防ぐためであったが、元々クレタ島の統合を巡る強硬派として頭角を現した彼が消極姿勢を継続するのは困難であった。ヴェニゼロスは軍事的解決を目指して陸海軍の強化に努め、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア王国との間に同盟の網を巡らせた(バルカン同盟)。1911年の伊土戦争によってオスマン帝国の弱体が明らかとなると、各国がバルカン半島に残されたオスマン帝国の領土の分割を画策した。1912年10月8日(グレゴリオ暦)、モンテネグロとオスマン帝国が戦闘を開始し第一次バルカン戦争が勃発すると、バルカン同盟の各国はオスマン帝国に宣戦布告を行い、ギリシア政府もクレタ島の併合を宣言した後、これに続いた。 戦争は10月の末にはオスマン帝国の敗北が確実視される状況になり、国境線の変更を巡って列強各国が介入する事態となった。1912年12月には停戦が一時合意されたが、オスマン帝国はクーデターを起こしたエンヴェル・パシャの下で1913年1月に戦闘を再開し、更に悲惨な敗北の後、5月末に和平に合意した。 その後、戦後処理を巡ってブルガリアと他の各国が対立し間もなく第二次バルカン戦争が勃発した(1913年6月29日-8月10日、グレゴリオ暦)。ギリシア・セルビア・ルーマニア・オスマン帝国の攻撃を受けたブルガリアは敗退し、ギリシアは二度目のバルカン戦争でも戦勝国となった。二度のバルカン戦争を通じてギリシアは90パーセントもの領土拡大に成功し、クレタ島領有も確定した。
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