国境線の変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 15:42 UTC 版)
通説では戦国時代末期(安土桃山時代)の1585年(天正13年)6月、それまで現在の境川の場所を流れ、墨俣で長良川と合流していた木曽川は、大洪水を起こして南方へ流路を移動したとされる。豊臣秀吉が尾張・美濃の国境を変更し、従来尾張の葉栗郡・中島郡・海西郡などの一部だった25か村を美濃に編入した(美濃の羽栗郡・中島郡・海西郡、近代に合併して羽島郡・海津郡)のも、この大洪水による流路移動がきっかけだとされている。 しかし、1585年(天正13年)の大洪水については、200年以上のちの地誌などに記載があるだけで、同時代の資料がまったく残っていない一方、すでにそれ以前の本能寺の変後(1582年(天正10年))の段階で、尾張国主織田信雄と美濃国主織田信孝とが、古来の木曽川(境川)上に置かれていた濃尾国境を領地の境とする国切か、それとも「大川」を境に分割する大川切かで対立している。「木曽八流」と呼ばれたように、そもそも木曽川はいくつもの派川に分かれ、西尾張の平野を複雑に離合しながら流れ下っていたが、そのほかいくつかの文献資料からも、室町時代中頃には現在の木曽川の位置にすでに大きな分流(をよひ川=及川と呼ばれていた)が存在しており、1582年(天正10年)時点では元々の木曽川本流にも規模で勝り、従来の国境よりも領土分割線として相応しいと主張しうるまでなっていたと考えられる。
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