露土戦争とファナリオティス時代とは? わかりやすく解説

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露土戦争とファナリオティス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 04:54 UTC 版)

ワラキア」の記事における「露土戦争とファナリオティス時代」の解説

ワラキア1690年前後大トルコ戦争終盤ハプスブルク帝国オーストリア)による侵攻標的となった当時ワラキアコンスタンティン・ブルンコヴェアヌ英語版)は秘密裡に反オスマン連合形成するための交渉行っていたが失敗終わった。ブルンコヴェアヌの統治時代1688年-1714年)は、後期ルネサンス文化(ブルンコヴェアヌ様式英語版))が花開いたことで知られる。そして同時にロシア皇帝ピョートル1世大帝) のもとで帝政ロシア台頭した。 ブルンコヴェアヌは露土戦争 (1710年-1711年)最中ピョートル1世接近受けた。しかしスルタン・アフメト3世ロシアとの交渉知られてしまい公位を失い逮捕されイスタンブール連行された。そして3年後1714年8月、ブルンコヴェアヌは4人の息子達と共に斬首刑処された。ワラキア公シュテファン・カンタクジノ(英語版)は、ブルンコヴェアヌの政略非難したにもかかわらず自身も反オスマン帝国回りハプスブルク家計画加わりオイゲン・フォン・ザヴォイエンプリンツ・オイゲン率いオーストリア軍対しワラキア通過できるようにした。カンタクジノも公位から追われ父・叔父と共にイスタンブール連行され1716年に3人とも処刑された。 シュテファン・カンタクジノの廃位後すぐに、オスマン帝国は、単なる形式堕していたワラキア公選制度廃止した(既に当時国民議会重要性低下しスルタン決定覆すだけの力を失っていた)。ワラキアモルダヴィア公国君主イスタンブールファナリオティスの中から任命されていた。モルダヴィアではディミトリエ・カンテミール公のあと、ニコラエ・マヴロコルダト(ルーマニア語版)が公に就任しファナリオティス支配はマヴロコルダト公によって1715年ワラキアへも導入された。ボイェリと公の間の緊張関係により、ボイェリの大多数免税特権与えられたことで徴税対象者減りその結果公国全体課税増額された。マヴロコルダトは貨幣経済成長容認し荘園制衰退もたらした御前会議(Divan、最高会議とも)においてボイェリ集団の力が増大したのも事実である。 同時にワラキアオスマン帝国対ロシア、またはオスマンハプスブルク戦争連続で、戦場となっていった。マヴロコルダット自身はボイェリの反乱によって公位を追われ墺土戦争最中ハプスブルク軍によって逮捕された。戦争後パッサロヴィッツ条約オスマン帝国オルテニア神聖ローマ皇帝カール6世割譲したオルテニア啓蒙主義支配影響を受け、すぐに地元ボイェリらが覚醒させられた。オルテニア1739年ベオグラード条約によってワラキア復帰した1737年から1739年にかけ起こったオーストリア・ロシア・トルコ戦争結果)。国境線の変更勝ち取ったワラキア公コンスタンティン・マヴロコルダト(英語版)は、1746年農奴制の公式廃止実施した(これには、重い負担にあえぐ農民隣国トランシルヴァニア大量移住するのを止める目的があった) 。この時代オルテニアバン住居クラヨーヴァからブカレスト移し、またマヴロコルダトの命令で、バン私的な財源国庫統合した。これが中央集権政権へと向かう流れとなった露土戦争 (1768年-1774年) 最中1768年, ワラキアロシアによる最初占領下におかれた(ワラキアのボイェリで、ロシア帝国軍士官であったトルコ首領、プルヴ・カンタクジノ(英語版)の反乱によってロシア占領するのに有利であった)。1774年キュチュク・カイナルジ条約は、オスマン帝国属国内に住む正教会信徒保護ロシア委ねたため、オスマン帝国による圧力弱まりロシア介入を許すことになった。この条約には義務となってきたトルコへ朝貢減額含まれていた。同時にトルコは、南ブーフ川ドニエプル川挟まれ地域ロシアへ割譲したため、初めロシア領土黒海沿岸達した。やがて国内比較安定しワラキアはさらにロシア干渉を受けるようになった露土戦争 (1787年-1791年)最中、フリードリヒ・ヨージアス・フォン・ザクセン=コーブルクザールフェルト率いハプスブルク軍がワラキア入国し1789年ワラキア公ニコラエ・マヴロゲニ(ルーマニア語版)を退位させた。この危機に、オスマン帝国影響復活したオルテニアはオスマン・パズヴァントグル(英語版)の遠征により荒らされた。パズヴァントグルは強力で反逆的なパシャで、パズヴァントグルの反乱の影響により、ワラキア公コンスタンティン・ハンゲルリ(英語版)が反逆罪容疑かけられ1799年処刑されることにもなった。1806年露土戦争 (1806年-1812年) は、在ブカレストワラキア公コンスタンティン・イプシランティ(英語版)が御前会議決定によって退位させられたことが原因一つとなって引き起こされた。この退位ナポレオン戦争進展合わせフランス第一帝政によって誘発されのだった。これにはキュチュク・カイナルジ条約影響みてとれるワラキア及びモルダヴィア構成されるドナウ公国(Danubian Principalities)ではロシアの政治影響力に対して許容的な姿勢がみられた)。この戦争で、ワラキアはミハイル・アンドレイェヴィチ・ミロラドヴィチ将軍率いロシア軍占領された。 1812年ブカレスト和平条約後のヨアン・カラドジャ(英語版公時代はペスト大流行en:Caradja's plague)で知られるが、また文化・産業育成事業において知られている。この時代ワラキアは、ロシア帝国拡大警戒するヨーロッパ諸国多くにとっての戦略上の要地となっていた。ブカレスト和平条約ロシア正式にベッサラビア併合しモルダヴィア公国近接するようになったためである。領事館ブカレスト開設され、スディツィ商人オーストリアロシアフランス保護されワラキア商人対する名称)に対し恩恵与え保護することを通し間接的ながらワラキア経済への大きな効果及ぼした。スディツィはやがて地元ギルド対し競争力優位に立った

※この「露土戦争とファナリオティス時代」の解説は、「ワラキア」の解説の一部です。
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