露土戦争とファナリオティス時代
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「ワラキア」の記事における「露土戦争とファナリオティス時代」の解説
ワラキアは1690年前後の大トルコ戦争の終盤、ハプスブルク帝国(オーストリア)による侵攻の標的となった。当時、ワラキア公コンスタンティン・ブルンコヴェアヌ(英語版)は秘密裡に反オスマン連合を形成するための交渉を行っていたが失敗に終わった。ブルンコヴェアヌの統治時代(1688年-1714年)は、後期ルネサンス文化(ブルンコヴェアヌ様式(英語版))が花開いたことで知られる。そして同時にロシア皇帝ピョートル1世(大帝) のもとで帝政ロシアが台頭した。 ブルンコヴェアヌは露土戦争 (1710年-1711年) の最中ピョートル1世の接近を受けた。しかしスルタン・アフメト3世にロシアとの交渉を知られてしまい公位を失い、逮捕されイスタンブールへ連行された。そして3年後の1714年8月、ブルンコヴェアヌは4人の息子達と共に斬首刑に処された。ワラキア公シュテファン・カンタクジノ(英語版)は、ブルンコヴェアヌの政略を非難したにもかかわらず、自身も反オスマン帝国に回りハプスブルク家の計画に加わり、オイゲン・フォン・ザヴォイエン(プリンツ・オイゲン)率いるオーストリア軍に対しワラキアを通過できるようにした。カンタクジノも公位から追われ父・叔父と共にイスタンブールへ連行され、1716年に3人とも処刑された。 シュテファン・カンタクジノの廃位後すぐに、オスマン帝国は、単なる形式と堕していたワラキア公選挙制度を廃止した(既に当時、国民議会の重要性は低下し、スルタンの決定を覆すだけの力を失っていた)。ワラキア、モルダヴィア両公国の君主はイスタンブールのファナリオティスの中から任命されていた。モルダヴィアではディミトリエ・カンテミール公のあと、ニコラエ・マヴロコルダト(ルーマニア語版)が公に就任し、ファナリオティス支配はマヴロコルダト公によって1715年にワラキアへも導入された。ボイェリと公の間の緊張関係により、ボイェリの大多数に免税特権が与えられたことで徴税対象者が減り、その結果、公国全体の課税は増額された。マヴロコルダトは貨幣経済の成長を容認し、荘園制の衰退をもたらした。御前会議(Divan、最高会議とも)においてボイェリ集団の力が増大したのも事実である。 同時に、ワラキアはオスマン帝国対ロシア、またはオスマン対ハプスブルクの戦争の連続で、戦場となっていった。マヴロコルダット自身はボイェリの反乱によって公位を追われ、墺土戦争の最中にハプスブルク軍によって逮捕された。戦争後のパッサロヴィッツ条約でオスマン帝国はオルテニアを神聖ローマ皇帝カール6世へ割譲した。 オルテニアは啓蒙主義支配の影響を受け、すぐに地元ボイェリらが覚醒させられた。オルテニアは1739年のベオグラード条約によってワラキアへ復帰した(1737年から1739年にかけ起こったオーストリア・ロシア・トルコ戦争の結果)。国境線の変更を勝ち取ったワラキア公コンスタンティン・マヴロコルダト(英語版)は、1746年に農奴制の公式廃止を実施した(これには、重い負担にあえぐ農民が隣国のトランシルヴァニアへ大量移住するのを止める目的があった) 。この時代、オルテニアのバンは住居をクラヨーヴァからブカレストへ移し、またマヴロコルダトの命令で、バンの私的な財源を国庫に統合した。これが中央集権政権へと向かう流れとなった。 露土戦争 (1768年-1774年) 最中の1768年, ワラキアはロシアによる最初の占領下におかれた(ワラキアのボイェリで、ロシア帝国軍の士官であった反トルコの首領、プルヴ・カンタクジノ(英語版)の反乱によってロシアは占領するのに有利であった)。1774年のキュチュク・カイナルジ条約は、オスマン帝国属国内に住む正教会信徒の保護をロシアに委ねたため、オスマン帝国による圧力が弱まり、ロシアの介入を許すことになった。この条約には義務となってきたトルコへの朝貢の減額も含まれていた。同時にトルコは、南ブーフ川とドニエプル川に挟まれた地域をロシアへ割譲したため、初めてロシア領土が黒海沿岸に達した。やがて国内は比較的安定し、ワラキアはさらにロシアの干渉を受けるようになった。 露土戦争 (1787年-1791年) の最中、フリードリヒ・ヨージアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト率いるハプスブルク軍がワラキアへ入国し、1789年にワラキア公ニコラエ・マヴロゲニ(ルーマニア語版)を退位させた。この危機に、オスマン帝国の影響が復活した。オルテニアはオスマン・パズヴァントグル(英語版)の遠征により荒らされた。パズヴァントグルは強力で反逆的なパシャで、パズヴァントグルの反乱の影響により、ワラキア公コンスタンティン・ハンゲルリ(英語版)が反逆罪の容疑をかけられ1799年に処刑されることにもなった。1806年、露土戦争 (1806年-1812年) は、在ブカレストのワラキア公コンスタンティン・イプシランティ(英語版)が御前会議の決定によって退位させられたことが原因の一つとなって引き起こされた。この退位はナポレオン戦争の進展に合わせ、フランス第一帝政によって誘発されたのだった。これにはキュチュク・カイナルジ条約の影響がみてとれる(ワラキア及びモルダヴィアで構成されるドナウ公国(Danubian Principalities)ではロシアの政治的影響力に対して許容的な姿勢がみられた)。この戦争で、ワラキアはミハイル・アンドレイェヴィチ・ミロラドヴィチ将軍率いるロシア軍に占領された。 1812年のブカレスト和平条約後のヨアン・カラドジャ(英語版)公時代はペスト大流行(en:Caradja's plague)で知られるが、また文化・産業の育成事業において知られている。この時代のワラキアは、ロシア帝国の拡大を警戒するヨーロッパ諸国の多くにとっての戦略上の要地となっていた。ブカレスト和平条約でロシアは正式にベッサラビアを併合し、モルダヴィア公国と近接するようになったためである。領事館がブカレストで開設され、スディツィ商人(オーストリア、ロシア、フランスに保護されたワラキア商人に対する名称)に対し恩恵を与え保護することを通し、間接的ながらワラキア経済への大きな効果を及ぼした。スディツィはやがて地元ギルドに対し競争力で優位に立った。
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