露土戦争とベルリン会議とは? わかりやすく解説

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露土戦争とベルリン会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 00:46 UTC 版)

アレクサンドル・ゴルチャコフ」の記事における「露土戦争とベルリン会議」の解説

黒海艦隊置けようになったロシアバルカン半島への影響力復活させ、ロシア国内では以前から高揚しつつあった汎スラヴ主義が一層高まり見せようになったバルカン半島は相変わらずイスラム教国オスマン=トルコ帝国支配下にあり、キリスト教徒スラブ人たちは土地所有認められず、また重い特別税を課されていた。こうした弱い立場置かれるスラブ人同胞たちをトルコから解放しようという運動汎スラヴ主義であった。また汎スラヴ主義者はバルカン半島進出野望を持つオーストリアにも敵意持ち三帝同盟にも否定的な立場だった。 この件については政府内でも意見分裂しゴルチャコフクリミア戦争二の舞避けるため三帝同盟維持してオーストリアとの連携のうえでトルコ要求伝えるべきと主張していたが、皇太子アレクサンドルアレクサンドル3世)らはオーストリア協同する要はなくトルコロシア国益沿った要求をはっきり伝えるべきであると主張していた。 そんな中1876年4月トルコ領ブルガリアトルコ支配対す蜂起発生し、これに対してトルコ残虐な鎮圧行った続いて7月にはトルコ宗主権下にあるスラブ人自治国セルビア公国モンテネグロ公国が、トルコに対して宣戦布告した。これによりロシア汎スラヴ主義頂点達しトルコとの開戦求め世論圧倒的となった多くロシア人蜂起支援のため義勇兵篤志看護婦志願してバルカン半島赴いていった。 一方ゴルチャコフトルコ領への侵攻オーストリア対立深めることから否定的であり、国際会議開催尽力しコンスタンティノープル会議開催されることとなった。しかし戦況優位に運んでいたトルコ自国国力過大評価し会議決められた諸合意守ろうとしなかったため、結局1877年4月ロシアトルコ宣戦布告することとなった露土戦争)。 一方イギリス政府ロシア地中海進出恐れていたが、国内世論はむしろキリスト教徒虐殺するトルコに強い憤り感じており、対ロシア参戦するのは難し政治情勢だった。ゴルチャコフは、イギリス参戦を防ぐために尽力しイギリス首相ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリからの要求受け入れてスエズ運河ダーダネルス海峡コンスタンティノープル占領しないことを約束した緒戦苦戦強いられたロシア軍だったが、1878年1月にはアドリアノープル陥落させた。戦意喪失したトルコとの間にサン・ステファノ条約締結した。これによりトルコヨーロッパにおける領土大きく喪失し戦争中にすでにロシア解放していたルーマニア王国セルビア王国モンテネグロ公国トルコから独立することになり、またブルガリアからもトルコ軍撤収することとなり、ロシア軍駐屯するブルガリア公国形式的にトルコ宗主権下)が樹立されエーゲ海にまで届く範囲領土設定された。また先のクリミア戦争失った南ベッサラビア地方ロシア領に復し加えて南コーカサスにも領土獲得したゴルチャコフ約束通りスエズ運河コンスタンティノープルダーダネルス侵されなかったが、ブルガリア公国存在結局ロシア地中海進出を許すものであったからイギリス政府世論強く反発した。またバルカン半島地歩築こうとしていたオーストリア=ハンガリー強く反発した。そこへドイツ宰相ビスマルクバルカン半島利害関係のない「公正な仲介者」として登場し1878年6月13日より露土戦争戦後理会ベルリン会議開催した。 この会議ロシアからはゴルチャコフ駐英大使ピョートル・シュヴァロフ(ロシア語版伯爵出席したゴルチャコフ華々しい外交成果上げようとはりきっていたが、先のポスト事件以来ゴルチャコフ敵意持っていたビスマルクからはほとんど無視されたという。 この会議結果ブルガリア公国分割されブルガリア領は北半分のみに限定された。南部ブルガリア北部東ルメリ自治州トルコ領自治州トルコ皇帝キリスト教徒から知事任命)、それ以外エーゲ海沿岸地域マケドニアトルコ領復帰した。他にロシア得たものは南ベッサラビア地方南コーカサスにおける領土けだった一方オーストリア=ハンガリーボスニア・ヘルツェゴビナ占領認められ事実上バルカン半島西部領土為したイギリストルコからキプロス島割譲受けたベルリン会議露土戦争参加していないイギリスオーストリア=ハンガリー漁夫の利得てロシアトルコには不満が残る形となったロシア汎スラヴ主義者の不満は高まり、ドイツ・ビスマルク批判さらには反ロシア政府運動増加したゴルチャコフは身の保全を図るため、ベルリン会議における失態責任を親独派のシュヴァロフ一人押し付けて彼を失脚追い込んだ

※この「露土戦争とベルリン会議」の解説は、「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の解説の一部です。
「露土戦争とベルリン会議」を含む「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の記事については、「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の概要を参照ください。

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