露土戦争とベルリン会議
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「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の記事における「露土戦争とベルリン会議」の解説
黒海に艦隊を置けるようになったロシアはバルカン半島への影響力を復活させ、ロシア国内では以前から高揚しつつあった汎スラヴ主義が一層高まりを見せるようになった。バルカン半島は相変わらずイスラム教国オスマン=トルコ帝国の支配下にあり、キリスト教徒スラブ人たちは土地所有を認められず、また重い特別税を課されていた。こうした弱い立場に置かれるスラブ人同胞たちをトルコから解放しようという運動が汎スラヴ主義であった。また汎スラヴ主義者はバルカン半島に進出の野望を持つオーストリアにも敵意を持ち、三帝同盟にも否定的な立場だった。 この件については政府内でも意見が分裂し、ゴルチャコフはクリミア戦争の二の舞を避けるため三帝同盟を維持してオーストリアとの連携のうえでトルコに要求を伝えるべきと主張していたが、皇太子アレクサンドル(アレクサンドル3世)らはオーストリアと協同する必要はなくトルコにロシアの国益に沿った要求をはっきり伝えるべきであると主張していた。 そんな中の1876年4月にトルコ領ブルガリアでトルコの支配に対する蜂起が発生し、これに対してトルコは残虐な鎮圧を行った。続いて7月にはトルコの宗主権下にあるスラブ人自治国セルビア公国とモンテネグロ公国が、トルコに対して宣戦布告した。これによりロシアの汎スラヴ主義も頂点に達し、トルコとの開戦を求める世論が圧倒的となった。多くのロシア人が蜂起軍支援のため義勇兵や篤志看護婦に志願してバルカン半島へ赴いていった。 一方ゴルチャコフはトルコ領への侵攻はオーストリアと対立を深めることから否定的であり、国際会議の開催に尽力し、コンスタンティノープル会議が開催されることとなった。しかし戦況を優位に運んでいたトルコは自国の国力を過大評価し、会議で決められた諸合意を守ろうとしなかったため、結局1877年4月にロシアはトルコに宣戦布告することとなった(露土戦争)。 一方イギリス政府はロシアの地中海進出を恐れていたが、国内世論はむしろキリスト教徒を虐殺するトルコに強い憤りを感じており、対ロシアで参戦するのは難しい政治情勢だった。ゴルチャコフは、イギリス参戦を防ぐために尽力し、イギリス首相ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリからの要求を受け入れてスエズ運河、ダーダネルス海峡、コンスタンティノープルを占領しないことを約束した。 緒戦は苦戦を強いられたロシア軍だったが、1878年1月にはアドリアノープルを陥落させた。戦意を喪失したトルコとの間にサン・ステファノ条約を締結した。これによりトルコはヨーロッパにおける領土を大きく喪失し、戦争中にすでにロシアが解放していたルーマニア王国、セルビア王国、モンテネグロ公国はトルコから独立することになり、またブルガリアからもトルコ軍は撤収することとなり、ロシア軍が駐屯するブルガリア公国(形式的にトルコの宗主権下)が樹立され、エーゲ海にまで届く範囲の領土が設定された。また先のクリミア戦争で失った南ベッサラビア地方はロシア領に復し、加えて南コーカサスにも領土を獲得した。 ゴルチャコフの約束通り、スエズ運河、コンスタンティノープル、ダーダネルスは侵されなかったが、ブルガリア公国の存在は結局ロシアの地中海進出を許すものであったからイギリスは政府も世論も強く反発した。またバルカン半島に地歩を築こうとしていたオーストリア=ハンガリーも強く反発した。そこへドイツ宰相ビスマルクがバルカン半島に利害関係のない「公正な仲介者」として登場し、1878年6月13日より露土戦争の戦後処理会議ベルリン会議を開催した。 この会議にロシアからはゴルチャコフと駐英大使ピョートル・シュヴァロフ(ロシア語版)伯爵が出席した。ゴルチャコフは華々しい外交成果を上げようとはりきっていたが、先のポスト紙事件以来ゴルチャコフに敵意を持っていたビスマルクからはほとんど無視されたという。 この会議の結果、ブルガリア公国は分割され、ブルガリア領は北半分のみに限定された。南部ブルガリアは北部が東ルメリ自治州(トルコ領自治州。トルコ皇帝がキリスト教徒から知事を任命)、それ以外のエーゲ海沿岸地域やマケドニアはトルコ領に復帰した。他にロシアが得たものは南ベッサラビア地方と南コーカサスにおける領土だけだった。一方オーストリア=ハンガリーはボスニア・ヘルツェゴビナの占領を認められ、事実上バルカン半島西部を領土と為した。イギリスもトルコからキプロス島の割譲を受けた。 ベルリン会議は露土戦争に参加していないイギリスとオーストリア=ハンガリーが漁夫の利を得て、ロシアとトルコには不満が残る形となった。ロシアの汎スラヴ主義者の不満は高まり、ドイツ・ビスマルク批判、さらには反ロシア政府運動が増加した。ゴルチャコフは身の保全を図るため、ベルリン会議における失態の責任を親独派のシュヴァロフ一人に押し付けて彼を失脚に追い込んだ。
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