露土戦争の頃とは? わかりやすく解説

露土戦争の頃(1877-78年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:17 UTC 版)

フョードル・ドストエフスキー」の記事における「露土戦争の頃(1877-78年)」の解説

ドストエフスキーは、オスマン帝国との露土戦争について、ロシア中心とするスラブ人統一正教徒統合説き、この戦争より神聖かつ清浄な功業はないと訴えていた。 1876年7-8月には、ロシアクリミア獲得しなければユダヤ人殺到してしまうとドストエフスキー危惧した1877年4月には、ヨーロッパで2世紀ロシア憎んでいる「何千何ヨーロッパジューと、その連中一緒にユダヤ化している何百万キリスト教徒」はロシア宿敵であるとした。 1877年にはオスマン帝国コンスタンティノープル征服してキリスト教の教会解放するために十字軍派遣すべきであるとし、露土戦争開戦直前3月にはコンスタンティノープルロシアものになるべきだと主張した1877年9月露土戦争についてドストエフスキーは、ロシアスラブ理念放棄して東方キリスト教徒運命課題解決せず投げ出すことは、ロシア粉々に解体して絶滅させることだと論じロシア国民は「ユダヤ人相場師たちの手中にあって、 ガルヴァーニ電気通じてぴくぴく動くような死骸ではなく自分の自然の使命遂行しつつ、真の生きた生活を生きる国民なければならない」とした。 もしロシアがこの戦争始めなかったならば、自分自分軽蔑するようになったことだろうとして戦争支持した同年11月には、コンスタンティノープルトルコ人放逐後に自由都市にしてしまうと、「全世界陰謀者の隠れ家となり、ユダヤ人投機人のえじきとなる」というスラブ主義者ダニレフスキーの見解卓越した正し推論称賛した1879年カフカース地方クタイシでの儀式殺人裁判についてドストエフスキーユダヤ人疑念持った1879年夏、ドストエフスキーは、ドイツ保養地バート・エムス療養訪れた際に、湯治客の半分ユダヤ人であり、ドイツベルリンユダヤ化されてしまったと友人ロシア宗務院ポベドノスツェフ報告している。 これに対してポベドノスツェフ宗務院長は「ユダヤ人はすべてを侵略し蝕んでいますが、『この時代の精神』が彼らに有利に作用しているのです。ユダヤ人は、社会民主運動ツァーリ暗殺運動の根幹位置し新聞・雑誌支配し金融市場手中におさめ、一般大衆金融面での隷属状態に追い込み」、「今ではロシア新聞はすでにユダヤ人のものになっています」と返信した。 死の直前1881年1月には、土地領有するものは鉄道家や実業家銀行家ユダヤ人でもなくて、誰よりも農民あるべきだとし、農民国家核心であるとした。

※この「露土戦争の頃(1877-78年)」の解説は、「フョードル・ドストエフスキー」の解説の一部です。
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