露土戦争をめぐってとは? わかりやすく解説

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露土戦争をめぐって

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:19 UTC 版)

ヘンリー・ハーバート (第4代カーナーヴォン伯爵)」の記事における「露土戦争をめぐって」の解説

1877年4月ロシア帝国オスマン=トルコ帝国の間に露土戦争勃発したイギリスにとってトルコロシアバルカン半島地中海への南下政策防波堤であったため、ディズレーリ首相は親トルコ政策をとったが、イギリス世論トルコキリスト教徒虐殺強く憤慨しており、ディズレーリ国内苦し立場に立たされた。敬虔な高教会派であるカーナーヴォン卿もイスラム教国トルコ大嫌いであり、彼は閣内で最も強硬に親ロシアトルコ立場をとり、対ロシア参戦反対した。ソールズベリー卿やダービー卿元首相ダービー卿息子)も対ロシア参戦反対し、カーナーヴォン卿と彼らは「反対派三卿」と呼ばれた12月ロシア軍がプレヴナを占領してコンスタンティノープル窺ううになると、ディズレーリ対ロシア参戦の意を強め1878年2月にベシカ湾のイギリス海軍コンスタンティノープルへ向かうよう命令下し、さらに600ポンド軍事費議会要求した。これに反発した親露派カーナーヴォン卿は抗議のために辞職した。しかしカーナーヴォン卿よりは柔軟だったソールズベリー卿は閣内留まり、ここで二人盟友関係は終わった

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露土戦争をめぐって

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:17 UTC 版)

ウィリアム・グラッドストン」の記事における「露土戦争をめぐって」の解説

セルビア敗北するロシア危機感強め1877年4月トルコ宣戦布告し露土戦争開始した。しかしロシア軍の侵攻プレヴェントルコ軍によって5か月阻まれた。 この間イギリス国内世論もだんだんトルコ同情的になっていった。だがグラッドストンの反トルコ立場は揺らがず、1877年5月には「トルコ支援しないこと、バルカン半島諸民族独立支援すること、ヨーロッパ列強足並みそろえてトルコ圧力をかけること」を求め動議議会提出したが、反応よくなかった自由党党首ハーティントン侯爵自由党議員全員にこの動議賛成させたものの、彼も内心では「グラッドストンは反トルコ思想行きすぎでロシア侵略的な野望盲目になり過ぎている」と考えていた。結局この動議与党保守党反対否決されている。世論グラッドストンへの反感強まり、「ロシアの手先」と罵られて、家に投石を受ける事件発生したロシア英国参戦してくる前にトルコサン・ステファノ条約締結させた。この条約エーゲ海まで届く範囲ロシア衛星国大ブルガリア公国樹立された。ディズレーリはこれに反発し英露関係緊張する中、1878年6月ベルリン会議開催された。会議にはディズレーリ自らが出席して強硬な姿勢貫いた結果大ブルガリア公国分割されロシアエーゲ海進出防がれた。この外交的成功ディズレーリ名声高まった。このベルリン条約批准議会かけられた際、グラッドストンギリシャ要求無視したのであること、また女王大権利用して議会に諮らず独断結んだ条約であることを批判する動議提出したが、この動議否決された。 [先頭へ戻る]

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露土戦争をめぐって

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:26 UTC 版)

ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「露土戦争をめぐって」の解説

1875年夏からイスラム教国オスマン=トルコ帝国バルカン半島キリスト教徒スラブ人蜂起発生した汎スラブ主義高揚させたロシア帝国は、バルカン半島への領土的野心もあってトルコへ敵対姿勢強めていった。イギリスにとってトルコロシアバルカン半島地中海への南下政策防波堤であったため、ディズレーリは親トルコ政策をとったが、イギリス世論トルコによるキリスト教徒虐殺強く憤慨しており、ディズレーリ国内苦し立場に立たされた。 ソールズベリー侯爵ディズレーリの親トルコ反ロシア政策疑問感じていた。彼は、バルカン半島スラブ民族は完全なるロシアの手先ではないと考えていた。つまり今バルカン半島諸国トルコから解放されることを最優先にしているので親ロシア的な態度とっているが、一度解放されしまえばその後バルカン半島支配しようとするロシア対立深めてくだろうから、彼らをトルコ代わる新たな対ロシア防波堤にすることができると考えていたのである1878年12月バルカン半島問題解決のためトルコ内政改革について話し合うコンスタンティノープル会議トルコ語版)が開催された。ディズレーリインド担当相ソールズベリー侯爵をその会議イギリス代表とした。親トルコ派でなく、かつインド担当相として親ロシア派でもない見られているソールズベリー侯爵派遣することが最も反発少ないだろうという判断だったと思われるソールズベリー侯爵自身会議決裂濃厚であったことからこの任命乗り気でなかったが、ディズレーリ皇太子バーティからヨーロッパの主要政治家顔見知りになっておいた方がいいと勧められたので引き受けることにした。会議においてソールズベリー侯爵は何とかトルコ内政改革約束させてロシアバルカン半島侵攻口実消し去りたかったが、逆にトルコディズレーリの親トルコ的な態度見てイギリス自分たちを見捨てることはないという確信強めてしまい、対ロシア強硬姿勢を崩さなかった。その結果会議1877年1月決裂した会議決裂受けてロシア4月トルコ宣戦布告し露土戦争勃発したヴィクトリア女王ディズレーリ首相対ロシア開戦へと傾いていく中、ソールズベリー侯爵外相ダービー伯爵元首相ダービー伯爵息子)や植民地相カーナーヴォン伯爵とともに対ロシア参戦反対した。とりわけ敬虔な高教会派大のトルコイスラム嫌いだったカーナーヴォン伯爵が反ディズレーリ姿勢強めたソールズベリー侯爵高教会派だが、彼はもう少し柔軟対ロシア開戦次善の策だと考えていた。 11月プレヴェン陥落し戦況ロシア有利になってくるとヴィクトリア女王参戦熱がますます高まりディズレーリダービー伯爵カーナーヴォン伯爵反対退けてイギリス海軍コンスタンティノープルへ出撃命令下したカーナーヴォン伯爵はこれに抗議して植民地相辞職したが、ソールズベリー侯爵内閣残留し、ここで盟友カーナーヴォン伯爵袂を分かつこととなった

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