露土戦争をめぐって
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「ヘンリー・ハーバート (第4代カーナーヴォン伯爵)」の記事における「露土戦争をめぐって」の解説
1877年4月、ロシア帝国とオスマン=トルコ帝国の間に露土戦争が勃発した。イギリスにとってトルコはロシアのバルカン半島・地中海への南下政策の防波堤であったため、ディズレーリ首相は親トルコ政策をとったが、イギリス世論はトルコのキリスト教徒虐殺に強く憤慨しており、ディズレーリは国内で苦しい立場に立たされた。敬虔な高教会派であるカーナーヴォン卿もイスラム教国のトルコが大嫌いであり、彼は閣内で最も強硬に親ロシア反トルコ的立場をとり、対ロシア参戦に反対した。ソールズベリー卿やダービー卿(元首相ダービー卿の息子)も対ロシア参戦に反対し、カーナーヴォン卿と彼らは「反対派三卿」と呼ばれた。 12月にロシア軍がプレヴナを占領してコンスタンティノープルを窺うようになると、ディズレーリは対ロシア参戦の意を強め、1878年2月にベシカ湾のイギリス海軍にコンスタンティノープルへ向かうよう命令を下し、さらに600万ポンドの軍事費を議会に要求した。これに反発した親露派のカーナーヴォン卿は抗議のために辞職した。しかしカーナーヴォン卿よりは柔軟だったソールズベリー卿は閣内に留まり、ここで二人の盟友関係は終わった。
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露土戦争をめぐって
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「ウィリアム・グラッドストン」の記事における「露土戦争をめぐって」の解説
セルビアが敗北するとロシアは危機感を強め、1877年4月にトルコに宣戦布告して露土戦争を開始した。しかしロシア軍の侵攻はプレヴェンでトルコ軍によって5か月も阻まれた。 この間、イギリスの国内世論もだんだんトルコに同情的になっていった。だがグラッドストンの反トルコの立場は揺らがず、1877年5月には「トルコを支援しないこと、バルカン半島諸民族の独立を支援すること、ヨーロッパ列強が足並みをそろえてトルコに圧力をかけること」を求める動議を議会に提出したが、反応はよくなかった。自由党党首ハーティントン侯爵は自由党議員全員にこの動議に賛成させたものの、彼も内心では「グラッドストンは反トルコ思想の行きすぎでロシアの侵略的な野望に盲目になり過ぎている」と考えていた。結局この動議は与党保守党の反対で否決されている。世論のグラッドストンへの反感も強まり、「ロシアの手先」と罵られて、家に投石を受ける事件も発生した。 ロシアは英国が参戦してくる前にトルコにサン・ステファノ条約を締結させた。この条約でエーゲ海まで届く範囲でロシア衛星国大ブルガリア公国が樹立された。ディズレーリはこれに反発し、英露関係が緊張する中、1878年6月にベルリン会議が開催された。会議にはディズレーリ自らが出席して強硬な姿勢を貫いた結果、大ブルガリア公国は分割され、ロシアのエーゲ海進出は防がれた。この外交的成功でディズレーリの名声は高まった。このベルリン条約の批准が議会にかけられた際、グラッドストンはギリシャの要求を無視したものであること、また女王大権を利用して議会に諮らず独断で結んだ条約であることを批判する動議を提出したが、この動議は否決された。 [先頭へ戻る]
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露土戦争をめぐって
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「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「露土戦争をめぐって」の解説
1875年夏からイスラム教国オスマン=トルコ帝国領バルカン半島でキリスト教徒スラブ人の蜂起が発生した。汎スラブ主義を高揚させたロシア帝国は、バルカン半島への領土的野心もあってトルコへの敵対姿勢を強めていった。イギリスにとってトルコはロシアのバルカン半島・地中海への南下政策の防波堤であったため、ディズレーリは親トルコ政策をとったが、イギリス世論はトルコによるキリスト教徒虐殺に強く憤慨しており、ディズレーリは国内で苦しい立場に立たされた。 ソールズベリー侯爵もディズレーリの親トルコ・反ロシア政策に疑問を感じていた。彼は、バルカン半島のスラブ民族は完全なるロシアの手先ではないと考えていた。つまり今バルカン半島諸国はトルコから解放されることを最優先にしているので親ロシア的な態度をとっているが、一度解放されてしまえば、その後はバルカン半島を支配しようとするロシアと対立を深めていくだろうから、彼らをトルコに代わる新たな対ロシア防波堤にすることができると考えていたのである。 1878年12月にバルカン半島問題解決のためトルコの内政改革について話し合うコンスタンティノープル会議(トルコ語版)が開催された。ディズレーリはインド担当相ソールズベリー侯爵をその会議のイギリス代表とした。親トルコ派でなく、かつインド担当相として親ロシア派でもないと見られているソールズベリー侯爵を派遣することが最も反発が少ないだろうという判断だったと思われる。ソールズベリー侯爵自身は会議の決裂が濃厚であったことからこの任命に乗り気でなかったが、ディズレーリや皇太子バーティからヨーロッパの主要政治家と顔見知りになっておいた方がいいと勧められたので引き受けることにした。会議においてソールズベリー侯爵は何とかトルコに内政改革を約束させてロシアのバルカン半島侵攻の口実を消し去りたかったが、逆にトルコはディズレーリの親トルコ的な態度を見てイギリスが自分たちを見捨てることはないという確信を強めてしまい、対ロシア強硬姿勢を崩さなかった。その結果、会議は1877年1月に決裂した。 会議の決裂を受けてロシアは4月にトルコに宣戦布告し、露土戦争が勃発した。ヴィクトリア女王やディズレーリ首相が対ロシア開戦へと傾いていく中、ソールズベリー侯爵は外相ダービー伯爵(元首相ダービー伯爵の息子)や植民地相カーナーヴォン伯爵とともに対ロシア参戦に反対した。とりわけ敬虔な高教会派で大のトルコ(イスラム)嫌いだったカーナーヴォン伯爵が反ディズレーリ姿勢を強めた。ソールズベリー侯爵も高教会派だが、彼はもう少し柔軟で対ロシア開戦は次善の策だと考えていた。 11月にプレヴェンが陥落し、戦況がロシア有利になってくるとヴィクトリア女王の参戦熱がますます高まり、ディズレーリもダービー伯爵とカーナーヴォン伯爵の反対を退けてイギリス海軍にコンスタンティノープルへの出撃命令を下した。カーナーヴォン伯爵はこれに抗議して植民地相を辞職したが、ソールズベリー侯爵は内閣に残留し、ここで盟友カーナーヴォン伯爵と袂を分かつこととなった。
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