露土戦争と憲法の停止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:32 UTC 版)
「アブデュルハミト2世」の記事における「露土戦争と憲法の停止」の解説
1877年4月、即位して間もない頃に露土戦争が始まる。戦争はオスマン帝国の敗北に終わり、翌1878年のロシアとの講和条約(サン・ステファノ条約)でセルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立とブルガリアへの自治権付与を認めざるを得なくなってしまう。 ただし、このような状況はヨーロッパ各国のロシアの南下政策に対する警戒感を招き、改めて戦後処理と調整の場としてベルリン会議が開催されることとなった。会議の結果、マケドニアはオスマン帝国に返還されることになったものの、オスマン帝国がバルカン半島における領土の多くを失ったことに変わりはなく、帝国の重心は徐々にアナトリアに移ることになる。 既に開戦前の1877年2月にミドハト・パシャは憲法の君主大権に基づいて大宰相を罷免され、国外追放に処されていた(後に逮捕・処刑される)。また、1877年3月に開会された議会では、オスマン帝国にとって不利な戦況に対して容赦のない政府への批判が繰り返された。1878年2月、これらの批判に業を煮やしたアブデュルハミト2世は非常事態を口実に憲法を停止し、議会(下院)も閉鎖してしまう。こうして第一次立憲制は終焉をむかえ、以後30年に及ぶ専制体制が始まることになる。 戦後の混乱のさなか、1878年5月にスルタンに不満を持ったアリ・スアビら新オスマン人150人がでチュラーン宮殿を襲撃する事件が発生した。スアビらはアブデュルハミトの兄のムラトを復位させようとしており、ついにムラトの幽閉されている部屋までたどり着いたが、精神疾患を抱えていたムラトは彼らと一緒になるのを拒否したためこの計画は未遂に終わった。その後アブデュルハミトはスアビらを含めた事件関係者ら60人を処刑するなど徹底的な処罰を行った。 さらに彼は議会と憲法を停止せたのみならず、タンジマート開始以降大きな権力をふるっていた大宰相府の権限を縮小しスルタンによる親政を行うようになってきた。スルタンに次ぐ実力者の大宰相については頻繁に交代が繰り返され、そのため特定の人物に権力が集中されないようになった。
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