儀式殺人(血の中傷)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「儀式殺人(血の中傷)」の解説
十字軍の時代には、ドイツとイギリス、フランスをはじめ、ヨーロッパ各地でユダヤ人による儀式殺人(meurtre rituel)が告発された。これは血の中傷といわれる。 1144年、イングランドのノリッジで、ユダヤ人が儀式のために少年ウィリアムを拷問した後で体から血を抜き、その血を過越祭のパンに混ぜたという儀式殺人が告発されたが、これが最初の告発であった。告発者のケンブリッジの修道僧シーアボルドはキリスト教の洗礼を受けたばかりの改宗ユダヤ人だった。ユダヤ人名士が一文無しの騎士に殺害される事件も起こった。イギリスでは、1168年にグロースター、1181年にはベリー=セイントエドモンズで儀式殺人告発がなされ、ユダヤ人が犠牲となった。 1147年、ドイツのヴュルツブルクでユダヤ人数名が儀式殺人で告発され、何名かが殺害された。 1150年、ケルンで、改宗ユダヤ人の男の子が教会で聖餅(ホスチア)を拝領すると、大急ぎで家に帰って、聖餅を土に埋めた。僧侶が穴を掘り返すと、子供の遺体があり、光が下り、子供は天に上ったという話があった。 1171年、ブロワでユダヤ人50人がキリスト教徒の子供を誘拐して儀式殺人を行ったと告発され、焚刑に処された。 儀式殺人を行ったとしてユダヤ人を告発する事件はこれ以降も中世ヨーロッパの各地で多発し、18世紀以降も東欧やロシアなどで発生が続いた。
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