修道士と各地でのユダヤ人追放
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「反ユダヤ主義」の記事における「修道士と各地でのユダヤ人追放」の解説
1413年-1414年 - 対立教皇ベネディクトクス13世がカタルーニャのトゥルトーザで69回に亘る会議を開催、ナザレのイエスがメシアであることをユダヤ教徒に説得しようとしたが、失敗。のち公開勅書により、キリスト教徒がタルムードを研究することを禁止した。 1420年、オーストリア、マインツではマインツ大司教によって、ユダヤ人追放令が出された。同年、アルザスのリクヴィルでは、領主の許可なしに住民たちが、自発的にユダヤ人を拉致して、殺害したり、追放した。1424年にはフライブルクとチューリヒ、ケルンから高利貸しの取り立てを理由に、ユダヤ人が追放された。フライブルクでは1401年からユダヤ人はキリスト教徒の血に飢えているため追放請願運動が行われてきた。以降、1432年のザクセン、1439年のアウクスブルク、1453年のヴュルツブルク、1454年のブレスラウとドイツ各地でユダヤ人が追放されていった。1434年のバーゼル公会議では、大学での研究にユダヤ人が従事することを禁止し、またユダヤ人を改宗させるために強制説教(predica coattiva)の必要が定められた。 シエナのベルナルディーノは1427年のオルヴィエートでの説教などで、ユダヤ人が金貸しと医学によってキリスト教への陰謀を企んでいると断じた。これは、アヴィニョンのユダヤ人医者が生涯を通じて毒薬を薬として渡して数千人のキリスト教徒を殺害してきたのは喜びであったという自白に基づいたものであった。 イタリアとドイツで伝道活動したフランシスコ会修道士カピストラーノのジョヴァンニは、ユダヤ人を保護している領主に神の怒りが降り注がれると脅して、1453年から1454年にかけてシュレージエンの儀式殺人裁判を演出し、ポーランドのユダヤ人の特権を停止することに成功した。 ドミニコ会修道士でフィレンツェ共和国の政治顧問サヴォナローラは、ユダヤ人を追放して、公営の質屋を開設した。しかし、教皇を批判したため1497年に破門され、1498年に処刑された。 1470年、ドイツのバイエルンのエンディンゲンで儀式殺人事件がおこった。翌1471年、マインツ大司教が再びユダヤ人追放令が出された。マインツでは追放令が出されたあと、撤回されたり、再度追放令が出されるなどした。1476年にはレーゲンスブルクでも儀式殺人を理由にユダヤ人が追放されたが、神聖ローマ皇帝から信頼されていたレーゲンスブルクのユダヤ人共同体の密使が宮廷に嘆願して一度取り消しに成功したが、1519年にはレーゲンスブルクからユダヤ人が追放された。1477年にはアルザス諸都市でスイス同盟兵士がユダヤ人を襲撃するので、あらかじめユダヤ人を追放するよう請願した。 1476年のマドリガル、1480年のトレドの議会で、ユダヤ人の居住制限、公職追放、ユダヤ人標識の表示、キリスト教召使の雇用禁止、農地購入などが制限されたが、これは伝統的政策の踏襲であって、あくまでも国王隷属民としてのユダヤ人を保護するためのものだった。 フェルトレの福者ベルナルディーノは「ユダヤ人高利貸しは貧者の喉を掻き切り、貧者の蓄えによって肥え太る」 と説教したり、1475年、チロルのトレント(イタリアのトレント自治県)ではユダヤ禍が来れば分かるだろうと説教した。その数日後にシモン少年儀式殺人事件が起きた。この事件では、9人のユダヤ人が拷問を受け、少年の殺害を自白したユダヤ人たちは処刑された。このユダヤ人の自白によって、ユダヤ人への中傷は広がり、オーストリア、イタリアでも儀式殺人と血の中傷事件が起こり、トレントには殉教者少年シモン(Simon of Trent)を記念する礼拝堂が建設され、1582年には教皇シクストゥス5世 によって列福された。フェルトレの福者ベルナルディーノは、儀式殺人事件について広める一方で、高利貸しへの反対運動も行い、15世紀末にはフランシスコ会がイタリアの主要都市で公営質屋モンテ・ディ・ピエタ(哀れみの山)を開設し、フランス、ドイツにも開設された。 1494年、スロバキア西部のティルナウ(トルナバ)で発生した儀式殺人事件では、ユダヤ人はキリスト教徒の血を儀式や薬として使っていると告発された。
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