修道会の聖職化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 10:31 UTC 版)
設立当初のフランシスコ会は修道士の割合が非常に高く、司祭や神学者など教導職にある者はほんのわずかであった。そうしたなかで、リスボンに生まれ、フランチェスコの思想に共鳴してフランシスコ会に初期の段階で入会し、のちに教会博士とされたパドヴァのアントニオ(リスボンのアントニオ)は数少ない神学者のひとりであった。初期のフランシスコ会に教導職が少なかったことには、創設者のフランチェスコが貧しさを礼賛することにかけては徹底しており、物質的な豊かさのみならず、精神的ないし知的な豊かささえも認めなかったことが影響している。この点は、同じ托鉢修道会ではあったが学問や理論の重要性を認め、当初から聖書研究や神学教育がさかんであったドミニコ会とも異なる点であり、フランチェスコ自身は「心貧しいことこそ神の御心にかなう」と主張し、修道士に学問や書籍は不要とさえ述べたのであった。 しかし、フランシスコ会は一方では当初より説教活動を活動の中心にすえており、また当時の異端思想との対決の必要性からも、しだいに神学的知識が必要とされてきた。ローマ教皇庁もドミニコ会とともに異端撲滅への寄与をフランシスコ会に期待していた。こうして、フランシスコ会はドミニコ会の影響もあって学問研究に関心を強めるようになった。1235年、イングランド出身でパリ大学の教授であったヘイルズのアレクサンデル(英語版)がフランシスコ会に入会したが、このことがフランシスコ会において神学的研究の土壌がかたちづくられる契機となった。また、1239年から第4代総長の地位にあったピサのアルベルト(英語版)は司祭出身の初めての総長であった。こののち、フランシスコ会は司祭修道会としての性格を強めるとともに、さらに学問研究にも力を注いだ。 1240年にファバーシャムのハイモが第5代総長となると、神学研究はますますさかんになり、各地の管区で研究機関や学校も徐々に整備されていった。しかし、本来的な清貧運動を重視する原理主義的な会員の間からは、こうした学究的傾向に対する不満の声も上がり、これら少数派は、後述のように修道会内で異端運動を起こすようになり、「清貧論争」を引き起こす原因となった。1244年にはイエージのクレセンチオ(英語版)が第6代総長となった。 ヘイルズのアレクサンデルはのちにスコラ哲学の一潮流となるフランシスコ学派の祖となった。彼のもとに学んだドミニコ会修道士のトマス・アクィナスとフランシスコ会のボナヴェントゥラはともに著名な神学者であるが、ボナヴェントゥラはプラトン主義に基づいて範型論と照明論を唱え、アリストテレスの思想に依拠するトマス・アクィナスの学派とともに神学上の二大潮流を築いた。ボナヴェントラとトマス・アクィナスの間では、とくにアリストテレスの受容をめぐって、たがいに対する深い友情と尊敬の念を基調としながらも、鋭い論争が繰り広げられた。 ボナヴェントゥラ以後では、オックスフォード大学のドゥンス・スコトゥスとオッカムのウィリアムがフランシスコ学派の著名な神学者である。オックスフォードからは、他にロバート・グロステスト、ロジャー・ベーコンがあらわれ、イギリス経験主義哲学の基礎が築かれた。なお、ボナヴェントゥラの後を引き継いでフランシスコ会総長となったジロラモ・マッシは、1288年、ニコラウス4世としてローマ教皇に登位し、死去する1292年まで教皇職にあった。 このように、フランシスコ会は会の認可から80年も経たぬまでの間にローマ教皇として登位する人物が現れるほどの大成長を遂げることとなったが、アッシジのフランチェスコが本来語っていた清貧とは、個人としても共同体としてもいかなる財産をも所有することなく、もっぱら手工業生産と人びとからの托鉢によるその日暮らしの漂白の異人として、巡礼者として生きることを意味していた。しかし、フランシスコ会発展にともなってフランシスコ会士は都市における司牧の役割を担うようになり、説教のための拠点(修道院)と空間(教会)を所有し、学問研究のための設備や手段を備えることが必要となってきた。フランシスコ会は、13世紀中葉ころまでに歴代教皇の恩顧によって司牧活動における諸々の特典を認められており、それが各地の司教の反発を呼ぶほどとなっていた。 1279年に教皇ニコラウス3世が「エクスィト・クィ・セミナート」でフランシスコ会の司牧特典を擁護すると、これをめぐって激しい論争が起こった。これが問題とされたのは、この時期の貨幣経済の進展によって司教たちが秘蹟の授与など司牧活動に収入源を大きく依存するようになったことと、フランシスコ会への特典がすべて教皇の個人的な恩顧によるもので、教会法上には何ら規定がなく、法的位置づけが曖昧な状態のままになっていたことにあった。 1300年、教皇ボニファティウス8世は教皇勅書「スーペル・カテドラム」を出してこの問題を決着させようとし、聴罪や葬儀に関わる限定的な一部の規定以外の特典を廃止する決定を下した。しかし、これに対するフランシスコ会側の反発は大きく、1304年にボニファティウスの教勅はいったん撤回されたが、教皇クレメンス5世の時代に教会法への規定が盛り込まれることとなった。 その一方、ローマ教皇によって認可され、教皇庁により各種の特権をあたえられ、教会法に位置づけられるようにもなったフランシスコ会は、いまや完全に教会ヒエラルキー内部の1つの制度と化した。そのなかで、フランチェスコが述べた「キリストの清貧」の思想は教会法やスコラ哲学によって再解釈され、ますます思想的生命を失ったものとなり、現実から離れた1つのイデオロギーへと堕していった。 なお、13世紀中葉以降から14世紀にかけての時期、モンゴル帝国に派遣されたプラノ・カルピニ、ウィリアム・ルブルック、ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ、ジョヴァンニ・デ・マリニョーリはいずれもフランシスコ会出身の修道士や司祭であった。
※この「修道会の聖職化」の解説は、「フランシスコ会」の解説の一部です。
「修道会の聖職化」を含む「フランシスコ会」の記事については、「フランシスコ会」の概要を参照ください。
- 修道会の聖職化のページへのリンク