ローマ教皇として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 09:51 UTC 版)
「カリストゥス2世 (ローマ教皇)」の記事における「ローマ教皇として」の解説
ギーはハインリヒ5世により大司教をやめさせられた。ハインリヒ5世と教皇ゲラシウス2世との後継者をめぐる対立の中、カリストゥス2世はガエータへの亡命を余儀なくされた。その後、ハインリヒ5世との交渉のもと、ローマで宣言した抗議者からの支持を撤回し、教皇と皇帝がランスに近いムッソン城で会うことが合意された。枢機卿ではなかったヴィエンヌ大司教ギー・ド・ブルゴーニュ大司教は、1119年2月2日にクリュニーで選出され、9人の枢機卿が選挙に参加した。そしてその選挙で、ギーはローマ教皇に就任した。10月にはギーがランスで協議会を開き、フランス王ルイ6世が、自国のほとんどの貴族と、400人以上の司教、修道院長と共に出席した。ハインリヒ5世はムッソンでの個人的な会議のために到着したが、予想されていたように1人ではなく、3万人以上からなる軍隊を引き連れていた。ギーは、軍が不利な譲歩を行うため攻めてくるのを恐れ、ランスにしばらくとどまっていた。そして、イングランド王ヘンリー1世とノルマンディー公ロベール2世の兄弟間の和解に無駄骨を折った。また、評議会と連携して、聖職売買や、事務妾に対する懲戒規則や政令による対処が行われた。さらに1119年10月30日に、皇帝と対立教皇グレゴリウス8世への破門が解かれるべきであることが決定された。グレゴリウス8世が皇帝軍とイタリアの同盟国の支援を受けていた中、イタリアに帰ろうとした。しかしギーは、ストリの要塞に逃げていたため、ナポリ王国によって逮捕された。彼はサレルノにある刑務所に移送され、のちに釈放となった。皇帝の同盟国はその後、すぐに解散した。
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