13世紀の記述
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女教皇ヨハンナの話は13世紀のポーランドの年代記作家オパヴァのマルティン(ドイツではトロッパウのマルティン、マルティン・ポルヌスすなわち「ポーランドのマルティン」としても知られる)から主に知られている。彼はChronicon Pontificum et Imperatumの中でこう記述している。 レオ……の後、マインツ生まれのヨハン・アングリクスが2年と7カ月4日の間教皇位につき、ローマで死んだ。その後一カ月の間教皇位は空位となった。このヨハンは女性であったと言われている。ヨハンは愛人の男の衣服を纏ってアテネに連れてこられた少女で、彼女は様々の学識に熟達していき、同等の者がいなくなった。その後ローマに行き自由七科を教え、学生と聴衆の間の偉大な師匠となった。彼女の生活ぶりと学芸の高さは市中で評判になり、彼女は万民にとってローマ教皇として選ばれるべき人となった。しかし、教皇位にある間に彼女は愛人の子を身籠った。正確な出産予定日時への無知から、サン・ピエトロ大聖堂からサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂へ向かう途中の、聖クレメント教会からコロッセオに向かう細い路地で彼女は出産した。死後、彼女は同じ場所に埋葬された。教皇は常にこの通りを避け、そうするのはこの出来事を嫌悪するからである。彼女が聖なる教皇の一覧に加えられることもないのは、女性であるためと、彼女にまつわることの汚らわしさの故である。 つまり、この出来事はレオ4世からベネディクトゥス3世の間の850年代に起きたとされている。 この話の別のバージョンがより古い時代のテキストにも登場する。 もっとも引用されるのは『教皇の書』(Liber Pontificalis)の写本のうちバチカンでみつかったものの中のアナスタシウス3世ビブオテカリウスについての記述部分であり、彼は女教皇と同時代人の筈である。 しかし、この記述は明らかにマルティンの後の時代の書体で、文脈とは全く関係のない位置に脚注として挿入されている。つまりこれはマルティンの記述を元に挿入されたものであり、論拠とはなりえない。また、Liber Pontificalisの他の写本には彼女の記述は見うけられない。 マリアヌス・スコトゥス (Marianus Scotus) が11世紀に執筆した「教皇についての年代記」(Chronicle of the Popes) についても同様である。彼女の名前について触れるもっと古いテキストである写本ではヨハンナという女教皇について触れているが、これら全ての写本はマルティンの時代よりも新しい。もっと古い時代の写本はこの伝説について全く触れていない。 女教皇の記述の見られる、マルティン以前のテキストは、ジャン・ド・マイイ (Jean de Mailly) が13世紀にマルティンよりわずかに早く執筆した年代記Chronica Universalis Mettensisだけである。彼は女教皇の時代を850年代ではなく1099年に設定し、こう書いている。 彼女は人格と才能によって重要な秘書となり、やがて枢機卿となり最終的に教皇となったが実は男に変装した女性であったために教皇やローマ司教の中には数えられていない。ある日、騎乗している時に、彼女は子を産み落とした。即座に、ローマの正義により馬の尻尾に足をくくりつけられ半リーグひきずられ人々から石を投げつけられた。彼女は死んだ場所で埋葬され、その場所には"Petre, Pater Patrum, Papisse Prodito Partum"(おおペトロ、父達の父よ、女性ローマ教皇の出産を裏切ってください)という文が刻まれた。同時に「女教皇の断食」と呼ばれる4日間の断食がはじめて行なわれた。
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