13世紀後半~14世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 18:00 UTC 版)
「キエフ府主教区」の記事における「13世紀後半~14世紀」の解説
モンゴル来襲後、1299年にキエフ府主教は「モンゴル人から逃げて」、キエフ公国のキエフから、ウラジーミル・スーズダリ公国のウラジーミルへ移った。ただし、教会法上の府主教座はキエフであり続けた。総主教座が公式にウラジーミルへの移転を認めたのは府主教アレクシーの時代である。一方、14世紀にリトアニア大公国がキエフ公国とキエフを併合すると、大公アルギルダスは府主教座を欲し、幾度か府主教区の設置にまでいたるものの、コンスタンディヌーポリからは「リトアニア」「ガリチア」「小ロシア」などの府主教の称号しか得ることが出来なかった。しかし遂に1375年に総主教フィロテオスはブルガリア人キプリアンに「キエフとリトアニア人の府主教」、「小ロシアとリトアニア人の府主教」の称号を認め、リトアニア占領下の管区を彼に委任した。ただし、当時モスクワにいた「キエフと全ルーシの府主教」アレクシーは存命中であった。結果として、アレクシーの死後にも争いが続くものの、1390年にキプリアンが「キエフと全ルーシの府主教」にも任じられ、キエフの府主教座はこの時に一旦統合された。
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