カスティーリャ王国とマリーン朝との間での動き
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「ナスル朝」の記事における「カスティーリャ王国とマリーン朝との間での動き」の解説
13世紀後半になると、ジブラルタル海峡を押さえるアルヘシラス、ジブラルタル、ロンダ及び海峡周りの諸都市が攻防の対象となった。ここで、マリーン朝のアンダルスへの介入が活発化し、ジブラルタル海峡をめぐりマリーン朝、カスティーリャ王国間の戦いが度々行なわれた。1275年以降マリーン朝のアブー・ユースフはカスティーリャ王国の内紛に乗じアンダルスへの介入を行なった。その子アブー・ヤアクーブも1291年に侵攻を行なったが、ナスル朝の離反により失敗し、さらに翌1292年にはタリファをカスティーリャ王国に奪われてしまった。 14世紀に入り、マリーン朝の内紛と隣国との抗争による弱体化を受け、ナスル朝のムハンマド3世はジブラルタル海峡の制圧をもくろみセウタ攻略を図ったものの、周囲のカスティーリャ王国、アラゴン王国、マリーン朝の包囲を受け撤退した。14世紀のナスル朝での軍事力の中心は、マリーン朝の政治抗争に敗れナスル朝に逃れたベルベル系部族集団であった。これら軍事集団はその力を基にナスル朝宮廷の内紛に干渉し、その不安定をもたらす要因となった。
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