カスティーリャ文化の向上
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 10:19 UTC 版)
「ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダ」の記事における「カスティーリャ文化の向上」の解説
フェルナンド3世がレコンキスタを主導するようになると従い、ムスリムから奪回したイベリア半島南部・アンダルスの植民運動や教会の組織化に従事、占領した町のモスク聖別も行っている。1226年にカピージャ(英語版)が降伏するとモスクを聖別、フェルナンド3世がアンダルス不在の1231年では、ムスリム勢力に奪われたケサダ(英語版)と周辺の村々を奪還、大司教領に組み入れ町の防衛を強化しただけでなく、フエロを与えて植民を奨励、教皇グレゴリウス9世からの許可をもらい、ムスリムとの交易までやってのけた。1236年にフェルナンド3世がコルドバを降伏させると、代理人を通してモスク(メスキータ)を司教座聖堂に改めた。 宗教や軍事の傍らで文化事業も盛んに行い、トレド翻訳学派(スペイン語版、英語版)を支援、自らも高い教養を活かして年代記を書き残した。アラビア語からラテン語の翻訳事業は学者たちの自発的な活動だったが、イブン・トファイル、マイモニデスなどユダヤ哲学・イスラーム哲学に影響を受けたラダはパトロンとして彼等を支援、クルアーンの翻訳やイブン・トファイルの著書『マフディ』のラテン語訳をマルコス・デ・トレド(スペイン語版)に要請した。また1226年にはトレドでフェルナンド3世と共に礎石を置いてトレド大聖堂建設を開始(ただし完成は200年以上後のカトリック両王時代の1493年)、1243年に年代記『ゴート史』(ヒスパニア事績年代記、スペイン事績録とも)をアラビアの文献に依拠しつつ書き上げた。 ラダの旺盛な活動は、歴史を通じてスペインにおけるカスティーリャの正当性を主張したかったのだとされている。『ゴート史』の叙述の大半がカスティーリャ・レオン両王国で占められていたことが根拠で、後にラダの文化事業を引き継いだフェルナンド3世の息子アルフォンソ10世は歴史でもこの路線を引き継ぎ、『ゴート史』を元に編纂した『スペイン史』はイベリア半島におけるカスティーリャの優位性を主張している。アラビア語を学習したりアラビア文学を読んだり、クルアーン翻訳にも見られるイスラム教学問の積極的な関心も、敵であるムスリムから全てを学び取ろうという好奇心が表れている。 1247年、フランスのリヨンで教皇インノケンティウス4世と会見、帰途ローヌ川で乗った船が転覆して死亡した。遺体はカスティーリャへ運ばれ、サンタ・マリア・デ・ウエルタ修道院(英語版)(現在のスペイン・カスティーリャ・イ・レオン州ソリア県)に埋葬された。翻訳事業はアルフォンソ10世に引き継がれ、彼の下でアラビア語からラテン語・カスティーリャ語の翻訳活動が盛んになり、ムスリムの科学がカスティーリャに広まっていった。
※この「カスティーリャ文化の向上」の解説は、「ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダ」の解説の一部です。
「カスティーリャ文化の向上」を含む「ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダ」の記事については、「ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダ」の概要を参照ください。
- カスティーリャ文化の向上のページへのリンク